こちらをお読み頂く前に
「ぽじ記」1〜4をお読み下さいませ。
大学2年の春
お御堂の懺悔室。
「私は多分お腹に子供を身ごもっています」
あなたはどうしたいのですか
「私には両親もいません。兄弟もいません。
肉親と言えば・・・・・大阪の祖母だけ。
私は自分の血のつながりのある
この、おなかの子供を産みたいと思います」
相手の方はご存じなのですか
「いいえ、知りません。彼は、もう、遠い人です。
何も言いません。このお腹の子供は
神様が私に与えてくださった、私の子供です」
苦労をいといませんか
大変ではないですか
「どんな苦労も、子供のためなら乗り越えられます。
いいえ、一人ではなくなるから、乗り越える事が
出来ます。このお腹の子は神様から私の人生への
贈り物です」
決心は固いのですね
「はい・・・・・・・・」
施設はかってない、大騒ぎ・・・・・・・
でも、誰一人として、子供を闇へ葬る事を口に
する人は居ませんでした。
お腹が大きくなる前に、大阪での就職先を
決める。もちろん、子供のことも隠さず、私に関する
情報は、全てウソ偽り無いモノをだして、
受け入れてくれる会社を探しました。
この年代は。男性でも大学に行く%は低く
女性では本当に難しい時代の最後当たり
だったので、短大とはいえ、大卒ということで
就職活動も苦労をしたとは思いませんでした。
でも、30社くらいは、面接しましたね。
学校へは施設とシスターが掛け合ってくれました。
シスターも、したたか、になって頂き、
学業もソコソコの成績でしたし、特に新聞沙汰に
なることを恐れていたので、世間にバレなければ
と言うことでした。
後、「背ばらみ」方言でしょうか?前にお腹が
大きくでてこない、妊婦の体型だったこと。
施設という、民間の家々の中で生活をして
いたわけではないので、これらが私の
「ててなしご」を産むサポートをしてくれたと
いうことです。
11月に、無事男の子を出産しました。
(コレが時々ブログにでてくる息子です。)
卒業も無事に出来祖母のいる大阪へいき
息子を祖母にみて貰いながら、会社の寮に入り
寝る間を惜しんで働きました。
お金が必要でしたから。
本当に、寝る時間を持てませんでした。
そして、知識欲は社会に出て、強くなりました。
何処で、何が役にたつかわからない。
すべて、じぶんのため、息子のため、生活のため
何かに役立せることも出来るかも知れない。
ハングリー精神・・・・・とは違う、もっとせっぱ
詰まった状態。
私が死んだら・・・・・・息子は私の二の舞?
そんなことは絶対させられない。
私だけで十分だ。
私は死なない。
私は生きる。
私は幸せになる。
子持ちシシャモ・・・子を抱えて働く。
今ならさほど珍しくない。
30年前は・・・・めずらしかった。
祖母は、息子の世話を「夢のようだ、孫がいるなんて」
と、全面協力をしてくれました。
就職先の社長ご夫婦にはお子さんがいらっしゃらず
私も息子も一緒にかわいがって頂きました。
私はソコの会社で様々な資格や技術を身に付けました。
恋も沢山しました。
でも、いつも心に決めていました。
「恋はするけど、結婚は息子がいるからしない。
仕事と結婚しよう」と。
数え切れない恋愛をしながら、働いて働いて
もちろん沢山遊び廻り・・・多くのことを学ぶ
20歳から25歳でした。
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