遊びに来てくださって、ありがとうございます。
いい年になっても、オンナはオンナ。
きれいに、年齢を重ねていきたいなぁ。
仕事と、人生を楽しんでいる、ジュクジョ(?)の
たわいない、おはなしです。

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ぽじ記ー5 [2007年10月11日(木)]
こちらをお読み頂く前に
「ぽじ記」1〜4をお読み下さいませ。



大学2年の春

   お御堂の懺悔室。


「私は多分お腹に子供を身ごもっています」


  あなたはどうしたいのですか



「私には両親もいません。兄弟もいません。
肉親と言えば・・・・・大阪の祖母だけ。
私は自分の血のつながりのある
この、おなかの子供を産みたいと思います」


 相手の方はご存じなのですか


「いいえ、知りません。彼は、もう、遠い人です。
何も言いません。このお腹の子供は
神様が私に与えてくださった、私の子供です」


  苦労をいといませんか
  大変ではないですか


「どんな苦労も、子供のためなら乗り越えられます。
いいえ、一人ではなくなるから、乗り越える事が
出来ます。このお腹の子は神様から私の人生への
贈り物です」


 決心は固いのですね


「はい・・・・・・・・」







施設はかってない、大騒ぎ・・・・・・・
でも、誰一人として、子供を闇へ葬る事を口に
する人は居ませんでした。


お腹が大きくなる前に、大阪での就職先を
決める。もちろん、子供のことも隠さず、私に関する
情報は、全てウソ偽り無いモノをだして、
受け入れてくれる会社を探しました。

この年代は。男性でも大学に行く%は低く
女性では本当に難しい時代の最後当たり
だったので、短大とはいえ、大卒ということで
就職活動も苦労をしたとは思いませんでした。
でも、30社くらいは、面接しましたね。


学校へは施設とシスターが掛け合ってくれました。
シスターも、したたか、になって頂き、
学業もソコソコの成績でしたし、特に新聞沙汰に
なることを恐れていたので、世間にバレなければ
と言うことでした。
後、「背ばらみ」方言でしょうか?前にお腹が
大きくでてこない、妊婦の体型だったこと。
施設という、民間の家々の中で生活をして
いたわけではないので、これらが私の
「ててなしご」を産むサポートをしてくれたと
いうことです。

11月に、無事男の子を出産しました。
(コレが時々ブログにでてくる息子です。)

卒業も無事に出来祖母のいる大阪へいき
息子を祖母にみて貰いながら、会社の寮に入り
寝る間を惜しんで働きました。
お金が必要でしたから。
本当に、寝る時間を持てませんでした。

そして、知識欲は社会に出て、強くなりました。

何処で、何が役にたつかわからない。
すべて、じぶんのため、息子のため、生活のため
何かに役立せることも出来るかも知れない。

ハングリー精神・・・・・とは違う、もっとせっぱ
詰まった状態。
私が死んだら・・・・・・息子は私の二の舞?

そんなことは絶対させられない。
私だけで十分だ。
私は死なない。
私は生きる。
私は幸せになる。




子持ちシシャモ・・・子を抱えて働く。

今ならさほど珍しくない。

30年前は・・・・めずらしかった。


祖母は、息子の世話を「夢のようだ、孫がいるなんて」
と、全面協力をしてくれました。

就職先の社長ご夫婦にはお子さんがいらっしゃらず
私も息子も一緒にかわいがって頂きました。

私はソコの会社で様々な資格や技術を身に付けました。


恋も沢山しました。
でも、いつも心に決めていました。
「恋はするけど、結婚は息子がいるからしない。
仕事と結婚しよう」と。



数え切れない恋愛をしながら、働いて働いて
もちろん沢山遊び廻り・・・多くのことを学ぶ
20歳から25歳でした。


続きを読む...
posted at 15:27 | この記事のURL
ぽじ記ー4 [2007年10月11日(木)]
こちらをお読みになる前に
「ぽじ記」1〜3を、お読み下さいませ。






普通高校。


クラブ活動はせず、施設の中ではシスターの仕事の

手伝いをし、勉学に励み、多くの本を読み・・・・・・


洗礼は受けなかったが、お御堂(ミサをするところ)は

心が落ち着く場所で、好きな場所の1つでした。

幼少から小学校と、身に付けることが出来なかった、

様々なことを、私はこの施設で学んだ。

月に数名、捨てられたり、親が養育を放棄した自分よりも

小さいな小さな子供達が施設に入ってくる。

私は自分がして貰えなかったことを、入ってくる

子供達に出来る限りのことをしてあげようと

一生懸命相手をした。すると、子供達は、私を

「母親」のように慕い、みにくいヤケドのケロイドの

手を小さな、紅葉のような手のひらで包んでくれ

「イタイ、イタイ、もう大丈夫」と頬ずりして

くれるのでした。









おかあさんに会いたい。









と、思い始めました。

17年間、1度も会いたいと思ったことが無かった

自分を産んだ母親。

シスターに相談し、探す、捜す、さがす・・・・・・

役所へ手紙を書き、返事を貰う。それを何度も繰り返す。

母は日本中を転々としていたようだ。

やがて、ひょうんなことから、大阪に住む母の母。

私にとっては祖母と、連絡が取れる状態になる。

この世の中で唯一、肉親と呼べる人が居た。

祖父は亡くなっており、母が私をおいて家を出るときに

一緒に九州から大阪へでてきたそうだ。

その後母は、祖母をおいて、またどこかへ

行ってしまったらしい。


母とは。会えなかったが・・・・・

祖母には会えた。

私に残された肉親・・・・・・・

「おばあちゃん」







うれしかった。









奨学金を申請し、私は短大へ。

本当は4年生大学へ行きたかったが・・・・・・・

施設は20歳までしか入所することが出来ず

短大へ、進学を決めた。

短大を卒業したら祖母のいる大阪へ就職する。

新しい自分の歩く方向を想像し、考えていた。



大学1年。

好きな人が出来て、おつきあいもするようになった。

4歳年上の、男前。古いスターで

「赤木圭一郎」という人によく似ている人。

でも、結婚とか出来る人ではなかった。

きちんとした家柄の長男。私は施設っ子。

でも、自分が初めて好きなになった男性。

結婚したいと、言ってくれた。うれしかった。

ダメなこととわかっていても、うれしかった。



「女の子の一番大切なモノ」をあげた。




彼は、両親に私を紹介して許して貰うと私を

つれて、彼の家へ・・・・・・・・・・・・


当然の如く・・・・・猛反対を受ける。







そして、別れ・・・・・わかっていたけれど・・・・・


哀しかった。














3ヶ月後・・・・・・・・






体の異変に気付く。








「ぽじ記」−5  へ続く
posted at 15:01 | この記事のURL
ぽじ記ー3 [2007年10月11日(木)]
こちらをお読みになる前に
「ぽじ記」−1
「ぽじ記」−2 をお読み下さいませ。





刃が手首に入り込む。


動脈は奥深く・・・・・・・・・・・






7針縫って、全治1ヶ月。

私の両手は、右も左もボロボロで・・・・・・・・

心もボロボロになりかけていて・・・・・・・・・



ソコの病院の先生が言った。

「辛いし、大変だけど、がんばれるか?」

何でも良い、今より何かが少しでもマシになるなら。

と、私は頷いた。

今、グーになっている手の皮膚組織を1回切り離し

5本くっついている指をバラバラにする手術。

その後の動くようにするためのリハビリ。
(切り離しても神経がどれくらい回復するか不明)

3回の手術で、グーはパーに切り離された。

リハビリは思うようにいかず・・・・・でも

諦めなかった。

みにくい、気持ち悪い自分の手をみるのは

15歳では、悲しかった。

でも、それよりも、指先でモノを触ることが出来ない、

持つことも握ることも出来ない不自由さの苛立ちを

何とかしたかった。

この時も、アカの他人の多くの人が、私のために

無償で動いてくれた。

学校も、用無しの自分がいるにはしんどいだろう、

違う高校の編入試験を受けることに動いてくれた。

自分の廻りの人達への感謝の気持ちを

表現するには、

自由自在に動ける、やけどの後はみにくいけど
お手伝いが出来る手。

違う高校への編入試験に受かること。

この2つを、やり遂げることで私の気持ちを

伝えたいと思い励んだ。








「ぽじ記」−4  へ続く

posted at 14:44 | この記事のURL
ぽじ記ー2 [2007年10月11日(木)]
ぽじ記ー1をお読みになってこちらを
お読み下さいませ。


高校1年春。

特待生で入学した高校はバレーボールでは全国レベル

「全国春高」という大会の常連高校で、入学式前から

合宿やら何やらと、大変だったしきつかったけど

楽しかった。

5月。

施設の厨房が火事になりかけた。

天ぷら油が引火したのだ。

休日で施設にいた私は厨房に飛び込み

火柱の上がる大鍋を石で出来ている流し台に

放り込めば火は消せると思い・・・・・・・・


消すことは出来た。火事も大きくならず厨房が

少し、燃えただけですんだ。








私の片方の手は、高温の油を浴びて

手首から先が・・・・・・・・・・・・・・・

ヤケドの症状で言うと、第3度という骨近くまで

ただれている状態になった。

包帯を取るまで3ヶ月・・・・・・・

包帯を取った、私の手はグーをした状態。

野口英世さん、みたいになっていた。

この手ではバレーは出来ない。

用なし役立たずの、特待生。


輝きかけていた、様々な自分の未来が

  こっぱみじん


涙も枯れ果て、脱力感と意識ももうろうとして

机の引き出しにカミソリを挟み

飛び出した刃に、おもいっきり手首を落とした。








「ぽじ記」ー3  に続く
posted at 14:30 | この記事のURL
ぽじ記ー1 [2007年10月11日(木)]
私は、私を産んだ母の顔を知らない。

父がアル中で病院を入退院しているときに私は生まれた。

母は、私が1歳になるかならない前に私を置いて

家を出ていった。父は病院を脱走し、失踪した。

父の母親、祖母が私を育てることになった。

小学1年の時、ある朝目覚めると、同じ布団の横で

祖母は冷たくなっていた。

それからは親戚の家を転々と、たらい回し。

小学3年の時。親戚の家でとても悲しいことがあり

何もかも、ナシにしようと思った私は小学校の

二階の窓から飛び降りた。

死ななかった。

花壇の「カンナ」の群生する中に落ちて両足骨折。

入院・・・・・・・

退院すると、今度は違う親戚の家に預けられた。

農家だった。牛、鶏、犬、ネコ・・・・・

ソコでは私より牛の方が大切にされていた。が

沢山の動物たちは、特に牛クンは、私にとっては

優しい動物だった。草刈り、田植え、稲刈り。

手作業でする全てのことにかり出された。

でも、ソコではちゃんと食べさせて貰えた。

邪魔者ではあるが、命の糧は与えて貰えた。

小学5年の冬。

失踪中の父が見つかった。

道ばたで「のたれ死」していたらしい。

涙は出なかった。と言うより記憶にあまりなく

それより、父の遺体のアル安置所に連れて行かれ

ソコが異様に怖かったのが一番記憶にある。

その数日後、初潮を迎える。学校ではまだ何も

話を聞いていなかったので。「私はこのまま死ぬんだ」

と、農家の納屋で泣いていた。

小学6年。子供のいない親戚の所へ預けられる。

その頃今の身長になり、胸も嫌気がさすほど膨らみ

体型の基本が出来上がったと思う。
(今はもっと太っているが)
おじさんは仕事もせず、ぶらぶらしていて、朝から

晩まで酒を浴びるように飲んでいた。が飲んで

いないときは優しい人だった。飲むと暴れるという

典型的な人だった。おばさんは水商売の仕事で

家のことは全て、私がすることになっていた。

国から生活保護を貰い、私を引き取ると余計に

お金が貰えるから引き取ったんだと聞かされた。

中学1年。

ある夜、おじさんは酒を飲み酔っぱらい、暴力を

私に振るい、その上乱暴までしょうとし、私は

顔を殴られ、口から血を流し、服を引き裂かれ

裸同然で、交番へ走り逃げ込んだ。保護された。

児童相談所で2ヶ月・・・・・とある施設への入所が

決定した。

その施設はカトリック系で、シスターが沢山いた。

捨て子(今はそうは言わないかな)や、親が養育を

放棄した子供達が60名位いるところだった。

朝夕のミサ、賛美歌、誰も私をぶたない。

熱々の湯気のでるご飯。少し嬉しい気持ちになった。

中学での勉強はほとんどわからなかった。当然だ。

小学校の時にろくに勉強をしたことがない。

私にとって、小学校は「給食」という食べ物、命を

守る場所以外何者でもなかった。

シスターはろくに勉強の出来ない私にほとんど付きっきりで

勉強を教えてくれた。

人は誰かがが自分の為に一生懸命に無償で

接してくれる事を知ると、その期待に答えたいと

思うモノなのだろうか?人によって違うだろうが

私は私のために、自分の限られた時間を私の

勉強に使ってくれるそのシスターに、顔も見たこと

がない母を重ねたい思いが合ったのかも知れない。

施設では、子供達は色んな仕事を役割分担して

持っていた。私の役割は小学校で学ぶべき勉強の

レベルを取り返すことが私の役割とされた。

シスターの努力と私の無知が何かを知る喜びの

発見のお陰で、中学2年の期末テストでは学年10位に

入るほど、学力はついた。

施設から近くの中学へ通うことになって、クラブ活動を

シスターから進められ、バレー部へ入った。

勉強はまるでだめな私だったが、走る飛ぶ泳ぐなど

運動は何もしなくても、人並み以上に出来ていた。

だから、その町でも強いバレー部の選手にも

スグなることが出来た。

その頃から、少し、自分の中での変化がある。

自分が何か面白いことを言うと、それを周りの人が聞き

笑う・・・嬉しかった。自分の言葉に対する、廻りの人達の

反応が嬉しかった。

小学生の時はほとんど言葉を発することがなかった

私は、施設に入ってから、おしゃべりな面白いことをいう

子供に変わっていった。

中学3年。

勉強も何の問題モノ無く、生徒会の役員をするようになり

バレー部のキャプテンも務め県大会では優勝し、

高校の特待生の推薦を受けるまでに私は変わっていった。

自分の人生は何処まで変わるんだろう。

楽しみで、両親がいないこと、小学校時代の

大変だったことを、全てを恨むこともなく

高校生活に夢を追っていた。







「ぽじ記」−2  へ続く
posted at 13:41 | この記事のURL
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