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症例4)海綿芽細胞腫 [2009年11月07日(土)]
■P.V氏、16歳、未婚。
■手術後の臨床診断:海綿芽細胞腫、視床の左半分。
■生検および手術レポート
 主訴は頭痛と間欠的な複視で、これが2年続いた。顔の左半分が最低3ヵ月半の間、感覚を失う。検査による客観的所見は次のとおり。 
1)右前頭部に開頭手術の治った傷跡と同じ両後頭葉に治った傷跡。
2)両眼の同側半盲。
3)網膜乳頭の色が薄い。
4)上下を見る時の複視。
5)顔面の左半分、体幹の左前半分、左脚、左足に感覚の過敏と異常。
6)黄斑部残留なしの右眼同側半盲。
■研究分析報告
 尿分析陰性。
髄液、澄んで色なし。
タンパク30mg/%
バンジー反応0
ワッセルマン反応、陰性
カーン梅毒血清試験、陰性
■診断の経過
1)1950年2月20日
 視床の病変を示す参考になる脳波には、特に変化なかったと結論しなければならない。ノストラゾルで、光の刺激を与えてもそうだった。
2)1959年3月20日
 視床の病変の大きさや位置から考えると、この脳波はごく小さな異常しか示していず、驚くほどである。
3)頭蓋骨のX線検査 1950年3月17日
 左前側頭に開頭術の後あり。骨片が残りこれは取り除かれてはいず、その下に少量の液が溜まっている。左側頭葉の多くの部分が切除されている。後になってできた、医学的処置による石灰化がまだ観られ、これは残留の腫瘍の存在を示す。
4)空気脳写図 1950年2月2日
 左の視床の中央および後ろ寄りの部分に病変の広がりあり、今回の気体注入撮影法による写真と1947年チューリッヒの病院で撮った物の間に、大きな違いは無い。
5)手術 1950年2月28日
 左の骨成形開頭術と腫瘍の切除
〈要約〉
 この新生のものは高度に細胞状の物で、神経膠腫に思われる。中央部は石灰化している。場所は脳橋の前で、天膜の上、視床の中である。X線治療をもっと続けるべきである。患者は手術3日後に失語症になった。しかし、その時でも精神は確かで、言葉での命令を理解するように観え、指導に従った。
 なお慈悲、肥大Rの3番目の脳神経の麻痺している証拠が明らかになり、最後の手術の日以来、左の5番目の脳神経の働きは阻害されていなかった。これは運動機能も含む脳神経である。言葉の回復は少しずつ続き、退院の日まで続いた。最初に話した言葉はフランス語で、ドイツ語・ハンガリー語・古典ラテン語の交じり合ったものだった。はっきりとした訴えの無いまま、傷は治った。
 退院時には患者は左の5番目の脳神経が感覚も運動機能も含めて、完全であることを示した。また、全手の感覚機能もそうだった、左3番目の脳神経の弱さも改善されたが、左の瞳孔は依然、右より大きく、反応もややぎこちなく、したがってそれに照応する眼球運動も同様だった。
 入院時の検査ではあった前述の感覚の過敏さ・異常さは、体幹の左前半分、左脚・左足からは完全に消えた。読むのは困難だが可能で、書くことは不自由なしだった。最近の記憶は弱く、集中力も低下した状態にある。
■1951年6月17日ゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
最近の2週間に患者は、右眼の眼瞼下垂に気付いた。3,4週間前から歩くのもぎこちなくなり、体のバランスが取れなくなった。また手の中に鉛筆がかんじられないため、書けなくなった。
 最後の手術以来、左目は塞がった。あけることは出来たが、あけるとモノが2重に見えるので閉じてしまうのだった。以前にはなかったほど体が弱くなったと感じたが、体重は1951年1月以来10ポンド(約4.5キロ)増えた。
 手術後、唾液が口左の端にたれるようになり、右眼の眼瞼下垂が起きたときからは唾液は溢れて口の右端からもたれるようになった。そして、自分ではそれがどうにもならなかった。右腕と右足も動きがかなり悪かった。最初の手術以後、嗅覚がなくなったのに気付いた。嗅覚は2回目の手術で戻って来たが、右の鼻腔だけ戻って来たようだ。患者は「自分の体内の悪臭を感じる」と訴えたが、それは外から−つまり「他人≠ノは感じられないものだと」訴えた。
 患者は顔色も悪く、気持ちもふさいでいて、ぎこちなく話し、発音も明瞭ではなかった。この後、何週間かの間に右脚と右腕が攣縮気味になり、腱反射は激しくなった。
X線検査をしてみると頭蓋骨の両側に大きな手術跡。頭頂葉あるいは視床の下後方および中央に、細かい網目状の大きな石灰化部分がある。
 第1、第2回目の手術後の所見から、2人の神経外科の権威は「患者に余命もそれほど長くない」との宣告をしていた。
 我々は直ちに治療を始めた。
 患者は1955年4月21日、再検査をモントリオールで受けた。患者はいい状態で音楽に深く興味を持ち、レコードをたくさん収集。そのほとんどはクラッシック音楽だった。彼は上下の唇の右半分ずつを使って驚くほど上手く話した。舌は右側にまだ少し垂れていたが、全身に対する間隔はほとんど回復していた。ただ右腕と右脚の動きは、部分的に回復しただけだった。本人には「長い間眼が見えなかったが、今はずっとよく見える」と言った。
■X線検査レポート 
「私はP.V氏の頭蓋骨を貴方〈ゲルソンの意=訳者〉の指示のように、X線で再検査した(11−23−51)そして1950年3月17日、つまり手術の少し後にモントリオール神経研究所で撮られたフイルムと見比べてみた。私の判断の限りでは、1950年3月以降、大きな変化は見られなかった」
 石灰化部分は取り除いてはいないのだから、これは腫瘍が成長していないことを示すものである。
 患者は実際生活には適応不全のままなので、家族の負担になっていた。病んだ母親は1人で食事を作ってやることも出来ず、そのため私の治療は続けていなかった。
 慢性的に肝臓機能が低下していると言うこう云う例では、私の治療法でしか救うことは出来ないし、元気でいることも出来ない。私の治療法は、若干程度、手を緩めることが出来るだけである。脳の手術とX線治療を受けたこういう症例の多くは、同じようにあまりいい結果になっていない。交感神経の座である第3脳室の基底にダメージを受けたケースも、この中に入る。
■1957年7月27日最後のレポート 
この症例を出版社に渡してから、患者の少年が1957年6月8日に突然亡くなった。「彼は私の助言に反し、2年間私の治療を中断したままだった」と云う知らせを受け取った。
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