日々のつれづれ日記です。
本や映画や舞台の感想、友達の話、愛犬の話、etc、etc。
気まぐれ更新なので、気ままにお付き合いください♪

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神様 [2008年08月30日(土)]
私は、もうずっと昔から、神様という存在を信じていない。

霊魂は、信じる。
幽霊も、信じる。
前世も、転生も信じる。
科学的に証明なんかされていなくても。
「出た!」と大騒ぎしなくても、「在る」のは当たり前だと、信じている。

神様だけは、信じていない。
かつて通っていた学校は、キリスト教系だったけれど。

水曜から木曜にかけて、富士山を訪れていた。
数年前から御縁のある、ちょっとユニークな企画会社の「富士登拝」ツアーだった。
(登山、ではなくて、登拝ね)
参加者13人の初顔合わせとなった昼食時に、
「なぜ、このツアーに参加しようと思ったか」
を、順番に話していった。
私は、ここで本音を語って“KY”になるのは野暮だと判断して、当たり障りのない理由を述べた。

「普段は、現実の慌しさに追われてしまって、神様を意識したり、大切にすることはほとんどありません。今回のことで、一度ゆっくりと心を振り返ってみる機会にしたいと思いました」

もちろん、嘘ではない。
ただし、本音の半分だ。
現実が慌しかろうと、平穏であろうと、それと神信心には何の関係もない。
どさくさに紛れて忘れているわけでもなく、信じられないのでもなく、「意識的に」信じないと決めているだけなのだ、本当は・・・。

いつから、とはっきりわからないほど幼い頃から、生きることは闘うことだった。
無条件に愛されている、守られている、という感覚は知らない。
誰も信じられない、独りぼっちの闘いだった。
闘いに負けることは、即座に、死を意味する。
自殺ならばともかく、他人の手にかかるのは嫌だった。
たとえ勝てなくても、負けたくはなかった。

幸せな時は、神様だって妖精だって、何だって信じられる。
あなたのおかげです、守ってくれてありがとう・・・と手を合わせることも容易いだろう。
でも。
生きることに絶望するほど理不尽な目に遭った時、それが積み重なった時、ふと「神様」なるものの存在が脳裏をよぎったとしたら。
すがることなどできない。
絶対に、祈ったりしない。
そこに向ける思いはただ、憎しみと呪いの刃でしかない。
あたしに何の恨みがある!と、怒鳴りつけたい思いでしかない。

“禍福は糾える縄の如し、すべては神様の大いなる思し召し・・・”

なんて本気で思えるほど、できた人間じゃないしね。
都合のいい時だけの、半端な信心ごっこは、本当に神様がいるとしたら、とても失礼なことだと思うしね。
だから、元気で幸せな時も、死しか見えないどん底の時も、神様は信じないと決めている。

全員で揃いの白い作務衣を着て、菅笠をかぶって金剛杖をつき、

「六根精浄 懺悔 懺悔 御山は晴天 富士権現」

と歌い交わしながら、一歩ずつゆっくり登っていった。
一日目は言葉通り、「御山は晴天」だったが、宿泊地だった八合五勺の山小屋では、寒さと頭痛とで一睡もできず、夜が明けた二日目は嵐のような吹雪のような、ものすごい横殴りの大雨だった。
気温も冷蔵庫並み。
これではさすがに作務衣というわけにはいかず、全員が長袖やらフリースやらをありったけ重ね着してカイロを貼って、色とりどりのフード付きレインスーツに身を包んで、頂上を目指した。
目を開けていられないほどの激しい風雨に、先達の声も半分かき消され、途切れ途切れに聞こえてくる「・・・御山は晴天・・・」のフレーズはもう、苦笑するしかなかった。
ようやく頂上にたどりついた時には、全身が冷え切って、ものを言うにも歯の根が合わないほど震え、正直なところ、喜びも感謝も達成感も安堵感も、何もないほど呆然としていた。
下山の途についても雨はやまず、時折、霙や霧に姿を変えながら降り注ぎ続けた。

こういうのって悪くない、と思っていた。
すべての思考を吹き飛ばしてしまうような風、すべての感情を流し去ってしまうような雨。

去年の9月6日に、亡き母が遺した「とんでもないもの」を見つけてしまってから、およそ1年、私の体調と感情はとみにバランスを崩しやすくなった。
何とか折り合おうとしているのだけれど、ふとした瞬間に、余震というかフラッシュバックというか、厄介な揺り戻しがある。
8月も半ばを過ぎて、その日が近づくにつれて、悪夢も胃痛もどっと増えた。
本当は、今回のツアー参加も、かなりぎりぎりまで迷っていた。

日本一の富士山は、甘くない。
登りも下りも、体力的には想像以上にハードだった。
けれど、そうして息を切らしていた間は、余計なことを考えずにいられた。
おそらく一生、消すことも許すことも忘れることもできない過去のことを考えずにいられた。
そのことが何よりも、有難かった。

この世には、信じられるひともいるということを、24歳の時に初めて知った。
それ以来、生きることをひたむきに楽しもうという思いが芽生えていた。
それを一瞬で全て突き崩してしまうような、去年の秋のできごとだった。

許せなくてもいい。
消せない痛みは負ったままでいい。
私は生きる。
行きたい所に行き、会いたいひとに会う。
それでいい。
それだけでいいよね。

富士山に祀られている神様は、子供の頃に読んだ古事記で覚えた、可憐な名前の女神様だった。
山を下りきって、最後の鳥居で振り返って一礼した時。

・・・いつか、心から信頼して安心できる伴侶に出会ったら、ね・・・
そのひとと一緒に、またおいで・・・

雨音の中から、女神様がささやいた気がした。
posted at 23:45 | この記事のURL
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ネコ・エコ [2008年08月04日(月)]
日に日にジャンプが上達して、行動範囲の広くなった子猫の美羽は、なぜかキッチンがお気に入り
ステンレスと人造大理石の、ひんやりした感触が好きなのかも。
ちょっと目を離すと、シンクにぴょんと飛び込み、ぴょんと飛び出して、そこらじゅうビチョビチョの足跡をつけて歩き回るので・・・



軽くて丈夫な、寸法の合う桐すのこを買ってきて、持ち手をつけて、「流し台のフタ」を作ってみました

人間の子供や犬なら、触られて困るものは手の届かない高所に避難させておけばいいのだけど、猫は軽やかなジャンプで空間移動しちゃうから・・・(笑)
まだ、生後3ヶ月ちょっとのチビのくせに
こちらは日々、発見と工夫の連続で、かなり面白い!!



テーブルの上で、ねんねんころり・・・



お気に入りの座椅子を、ネルお姉ちゃんとシェアして、ねんねんころり・・・

・・・癒し、という言葉は、あまりにも安っぽく使われすぎているから、好きじゃないけれど。
でも、確かに癒してもらっていると思う
24時間365日、専属のセラピストが常駐してくれてるくらい、ね(笑)

精神面だけではなく、現実の生活面でも、想像以上のプラス効果があって。
まず、片付けと掃除が不可欠になり、ものを出しっぱなし・散らかしっぱなしにしなくなった。
正確には、“できなくなった”。
人間の食べるものや薬、化粧品雑貨、生花や植物、電気コード、台所用品、手芸用品etcの中には、犬や猫がかじったり飲み込んだりしてしまうと命に関わるようなものも多々あるから。

まさに、“猫を追うより皿を引け”。
これは危ないから触っちゃダメだよ・・・と言葉で説明できない以上、片付けておくのが一番。

節電のためではなく、うっかりコードをかじって感電したりする事故を防ぐために、使用中じゃない電気コードはこまめに抜く、とか。

掃除も、カノジョたちが素手&素足で歩き回るところを合成洗剤で掃除するのはちょっと・・・ということで、重曹水をスプレーボトルに作りおきして、それで床を拭いたり。
掃除の回数も増えるので、使い捨ての掃除シートのようなものはやめて、古タオルの雑巾を使うようになったり。
エアコンの冷風は、天井よりも床の方・・・つまり、体の小さいカノジョたちの方に流れていくので、つける時は設定温度を少し高め(28℃)にしたり、扇風機や換気扇の力を借りたり。

エコロジーという概念が世の中に広まって久しいけれど、実際、「地球環境の未来のために云々」なんて大きな話をされても、いまいち実感は湧きづらい。
たかが数十年の一生、自分ひとりが何を浪費しようと、何を節約しようと、大勢に影響なし、みたいで。
でも。
目の前にいる、小さな家族の健康と安全のためなら、話は別よね

エコの原点は、使命感でも責任感でも正義感でもなくて、ただ単純な愛なのかも・・・なんて、ふと思ったりする

posted at 00:42 | この記事のURL
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