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はじめに [2009年02月09日(月)]
この創作は、私が子供のときに体験したいじめと、娘達が小学校、中学校で受けたいじめをもとに、子供のときの思いと、自分の子供がいじめられていることに対する親の思いとを形にしたものです。学校、担任教師への失望と、願いと、祈りも込めながら・・・

カテゴリで、上から順番に見られるように編集してあります
* 1 * [2009年02月09日(月)]
目が覚めて時計を見ると、もう起きる時間だった。亜紀はゆっくりと周囲を見回した。いつもと変わらない朝の始まりだ。薄いカーテンを透かして差し込んでいる朝の光にほっとするような、憎らしいような、複雑な気持ちになる。    
 目覚まし時計のベルが鳴る前に自然に目が覚めた、という事実を唯一の慰めにして、ゆっくりと時間をかけて制服を着、鞄の中身を確かめていると、母親がドアを開けて、
「起きてる?」
と、早口で言った。
「ご飯出来てるから早く食べなさい」
言うが早いか階段をかけ降りて行った。亜紀が食卓につく頃には、母の食事はもう終わりかけている。
「期末試験いつから?中二にもなれば下手な点取れないんだから。頑張って勉強してよ。学生の本分なんだから」
 うんうんと頷きながら固いトーストをほお張った。冷たい牛乳でそれを流し込むと、居間でテレビにしがみつくようにして芸能ニュースを見始めた母の横顔を覗き見た。
 学校へはもうずっと前から行きたくなかった。登校拒否をする勇気なんか無かったし、行かない理由を根掘り葉掘り問い詰められるのが嫌だから、我慢して通っているだけだ。ニュース番組でいじめや自殺の事件を見るたびに、「そんなの可哀相」とか、「許せないわ」などといちいち感情移入している母が、いざ自分の娘が同じ目に遭っていることを知ったら何て言うだろうか。亜紀には想像がついた。だから母には何も言わず、毎日判で押したように家を出て、とぼとぼ学校へ向かうのだ。授業をサボって公園や繁華街へ逃げ出したかったことが何度あったろう。けれどもし補導されて親に知れたら、と思うとそれも出来なかった。
 亜紀の父親は単身赴任をしていて、仕事の忙しい時などひと月帰らないこともままある。だから母との間が気まずくなってしまったら、家庭さえもが安住の地ではなくなってしまうのだ。それだけはなんとしても避けたかった。
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* 2 * [2009年02月09日(月)]
 みんなに無視されるようになったのはいつの頃からだろう。二年生になってクラス替えがあり、初めは上手くやっていた筈だった。そのうちに三谷頼子がクラスの中で浮いた存在になっているのに気付いた。明るくて物怖じしないのに、男子生徒からは特に嫌われていた。容姿のことを言われれば私だって何も言えない、と亜紀は思い、頼子のことを気にかけていた。気持ちが通じたのか、頼子の方から友達になりたいと言って来た時、亜紀は二つ返事で友達になったのだっだが。
 それからだった。クラスのみんなが頼子のみならず亜紀まで避けるようになったのは。初め、亜紀はそれでもいいと思っていた。いわれのないことで嫌われるなんて馬鹿げてる。そのうちみんなもわかってくれる。私は理由のないことで人を傷つけるより、自分が傷ついても人の気持ちをわかってあげたいもの。そう思っている自分が誇らしくさえあった。けれど、それは間違っていたんだろうかと今になって思う。もしかしたら私は頼子に対して優越感を抱いていたのだろうか。知らず知らず偉そうな態度を取ってしまったのだろうか。そのためにこうして嫌われてしまったのかしら。頼子といい友達になれた自信はない。ほどなく、頼子は父親の転勤でこの町を出て行った。
 今、亜紀はひとりぼっちだった。
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* 3 * [2009年02月09日(月)]
 亜紀は学校で、絶えず周囲や自分の持ち物に対し、注意を向けていなければならなかった。机の中や鞄の中から、ときどき物が無くなることがあるからだ。けれど、どうしても教室を離れなければならないことがある。音楽室や、理科室、移動授業から戻ってくると、次の授業で使う物が無くなっていることがよくあった。教師達は亜紀が頻繁に忘れ物をするのであまり快く思っていなかった。
 正直言って中学生になってからというもの、亜紀は忘れ物をしたことが無い。家で持ち物をしっかり確かめて来るのだから。朝、教室に来た時点ではまだきちんと全て揃っているのだ。それを担任や科目ごとの教師に訴えても良かったのだが、それはしなかった。告げ口をするようで嫌だったからだ。小学校の頃、担任の先生に友達が自分に嫌なことをした、とたまりかねて訴えた時、「それくらいのことは自分で解決しなさい」と叱られて以来、先生に頼ることはしなかった。 
 ましてや今は中学生。そんなことを先生に相談しても無駄なように思えた。掲示板のポスターには「いじめをなくそう!」、「人にやさしく」などでかでかと描かれているが、そんな物はただの紙切れに過ぎないことを知っていた。みんな口では言うのだ。「仲良く、仲間外れを作らず、力を合わせていいクラスにしよう!」           
 そんな目標は黒板の上に掲げられた途端に忘れられてゆく。
  
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* 4 * [2009年02月09日(月)]
 どんなに泣いても、それを知っている人がいなければ慰めてもらうことは出来ない。そんなことは亜紀にもわかっていた。毎晩のように泣いていたので、朝起きたときにまぶたの腫れが残っているときもあったのだが、母と顔を合わせても彼女は何も気がつかない。お母さんはもともと私の顔なんか見ていないのかも知れない、と亜紀は思う。誰もが自分のことで精一杯なのだ。母であっても。大人であっても。それをいつも感じていたから、亜紀は自分のことで母をわずらわせたくなかったのだ。一生懸命働いている姿をずっと見てきたからこそ、尚のこと。でも、もうこの状態を保てないかもしれない、と亜紀は悩んだ。
 家にいるときは普通の生活だった。今までは。母にいじめを知られたら、その後どうなるんだろう。騒ぐだけ騒いで、やっぱり今までのように学校に行く?みんな急に態度を変えて優しくなるの?そんなことは無い。考えられない。
 では、もっといじめがひどくなる?そんなの、生きていけない。
 学校に行かない。
 そう、それがいい。不登校している子なんて全国にはごまんといる。私が不登校をして悪いことなんてあるもんか。
 不意に父の顔が思い浮かんだ。私が不登校になったりしたら、お父さん、なんて言うだろう。
 父は約二百五十キロ離れた町で仕事をしていた。転勤族なのだが、亜紀をこれ以上転校させないために三年前に家を購入した。転校ばかりで亜紀には仲のいい友達がなかなか出来ず、出来たと思ったらまた転校で離れ離れになってしまう、という繰り返しを終わりにしたかった。新しい家に二年住み、父は転勤になり、家を離れた。
 一緒について行けば良かったな。
 亜紀は心からそう思った。お母さんももう引越しは疲れたなんて言って、社宅のお付き合いは人が入れ替わるから疲れるなんて言って、結局お父さんに家を買わせてしまった。私のためだから、を強調して、本当はお母さんが家を欲しかっただけじゃないかしら。
 亜紀はベッドから起き上がると鼻をかんだ。脇にはティッシュの山が出来ていた。それをゴミ箱に片付けながら、お母さんはこのティッシュのゴミの数を見て、いつも何も思わないのかしら、と思いながらまた鼻をかんだ。
 死んでしまおうかな。
 それは毎晩のように考えていた。亜紀は本をたくさん読み、夢見がちな少女であったため、前世とか来世とかいうものを信じていた。同居していた父方の祖母が天国と地獄についての話を、小さな亜紀に毎日のように聞かせ、「悪いことをしたら地獄に行くよ」というのを脅し文句にして亜紀を躾たため、亜紀は地獄というものもまたあるのかも知れないと思うのだった。芥川龍之介だって書いている。死んだら私は地獄に行くのかしら、なんて思うと怖くなる。また逆に、全く何も残らないのも悲しいと思う。死んだら終わり。それは楽だけれど、では、生きていることにどんな意味があるのだろう。死んだら終わり、ではどんなに頑張っても報われないじゃない。魂だけ残る、というのもまた悲しい。みんなに気付いてもらえないのに傍にいて、ゆらり漂って、何にも伝えられないの。そんなのイヤ。
 亜紀は死について何時間も考える。それがどんなものか知りたくてたまらない。
 夜中の二時をまわって、階下で鍵を開ける音がした。母が帰宅したのだ。耳をそばだて様子をうかがう。母はリビングに入って、ドアを閉めたようだ。レジ袋をくしゃっとする音。、音楽を聴いているのだろう、低音の響きが伝わって来る。一時間くらいして、水の音がしたのを最後に階下はしんと静かになった。亜紀は明日からどうやって学校を休もうか、真剣に考え続けていた。

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* 5 * [2009年02月09日(月)]
 翌日母に伴われて学校へ行った。教室ではなく校長室に来るようにと言われていた。校長や教頭、担任教師にひたすら弁明する母の姿を亜紀は冷めた目で見ていた。担任は「いやそれはそうじゃなくて」、とか「勘違いですよ」などと母の訴えを適当にあしらって、亜紀に冷たい固い声で、
「お前の思い違いだよな?」
と、念を押すように言った。
 亜紀は返事をしなかった。下を向いて、固くなっているだけだった。
「とにかくお母さん、誤解もあるみたいですから」
と、校長が言った。
「あれですな。高橋君が普通に教室で勉強できない心境にあるのでしたら、ですな。年度が始まって三ヶ月やそこらでクラス替えなどということになりますと、他のお子さんや父兄の方々にもご迷惑をおかけすることになりますし」
 校長はいったん言葉を切った。母はうなずきながら話に聞き入っていた。
「今はあれです。保健室登校というものが、あるんだね?」
 校長の問いに教頭がすかさず答えた。
「そうなんです。とりあえず学校には休まず来ていただいて、教室に入れる日は教室で勉強していただく。教室に入れなかったら保健室へ行っていただいて、そこで自習したり、課題をやって、単位を取るのです。そうすると普通に卒業出来ますから」
「他にもいるんですよ。保健室登校の子というのが」
 校長が言うと教頭も担任も笑った。一見、心配しなくていいんですよ、という友好的な笑いに見える。母はすっかり安心してしまったようだ。彼女も笑顔になって、
「そうなんですか?」なんて言っている。
 保健室登校をすればいいなんて解決法に収まること自体おかしいよ。何かずれている。お母さん、気がつかないの?亜紀は大人たちへの不信感で吐き気がした。
 保健室登校、が始まった。
 阿部先生が明るく迎え入れてくれるのが妙にわざとらしく感じ、嫌だった。亜紀が何をどうしていいかわからず、阿部先生に聞くと、
「好きな科目を出して勉強したり、やりたいことをやればいいから」
という返事だった。
 やりたいことって、何でも?そう言われると返って何をしたらいいのかがわからなかった。
保健室はそう広くなく、ベッドがふたつ、薬品戸棚がひとつ、阿部先生の机と椅子、その他パイプの丸椅子がみっつ置いてあるだけだった。窓が大きく、明るい陽光が射していて、細く開いたサッシの隙間から入り込む密かな風が白いレースのカーテンをそっと揺らしていた。いつも掃除に来ていたのに、こんなに仔細に室内を見たのは初めてだ。廊下ばかり掃いていたから。窓に近寄ると鉢植えのピンクの花から甘いにおいが漂ってくる。ここが学校?教室とのあまりの違いに亜紀は戸惑った。同じ校舎の中にこんなに静かな場所があるなんて。でも学校である証拠に廊下の奥から生徒達のざわめきも聞こえるし、窓から見れば、ほら、一時限目に体育をする生徒達がグラウンドに集まり始めてる。始業のチャイムが、鳴った。
 保健室の戸が静かに開いて、女子生徒が一人入って来た。
「梨佳子ちゃん、おはよう」
と、阿部先生が元気に声を掛けた。生徒は挨拶もせず中に入ってくると、ふと、亜紀に眼を止めた。ああ、この子かと亜紀は気がついた。昨日校長先生が他にも保健室登校の子がいるって言っていた。梨佳子と呼ばれた生徒は亜紀に敵意を感じているかのような一瞥をくれると、奥のベッドへ真っ直ぐ行き、鞄から小説の文庫を三冊出して枕元に置き、ベッドに上がって本を読み始めた。
「梨佳子ちゃん、今日からここに来ることになった、高橋亜紀さんよ。よろしくね」
 阿部先生の声は宙に消えたかのように梨佳子は無視して本を読み続けていた。先生は亜紀に向かい、
「高柳梨佳子さん、あなたと同じ二年なの。保健室に来出して、もう一年近くなるわ。本を読むのが好きなの。読んでいる時に話しかけると嫌みたい。よろしくね」
と、遠慮がちに言った。
「本を読んでいいの?勉強しなくても?」
「いいわよ」
と、先生は言った。
「ここはあなたが好きなことをしていいの。勉強でなくても」
 変なところだ。亜紀は困惑した。ここは学校であって、学校ではないのだ。
 一日目を亜紀は保健の先生の仕事ややって来る生徒達の様子などを見て過ごした。三時限めの休み時間に亜紀のクラスの斉藤美沙と佐野恵美が来たが、向こうが知らんふりをしたのでこちらもそうした。美沙は阿部先生を独り占めにしたいみたいにベタベタしていたが、チャイムが鳴って名残惜しそうに出て行った。給食も他のクラスの生徒とは別に給食室へ取りに行くのだが、係りの生徒がクラス分を持ち去ってから、しんと静まった給食室へ一人で取りに行った。給食のおばさんに声をかけると、調理台の上に置いてあった一人分だけよそってあるトレーを渡してくれた。渡すとさっさと奥へ引っ込み、自分たちの食事を始めた。亜紀は梨佳子の分を一緒に持って行ってやろうか迷っていたが、おかずが汁物なのを見てやめた。給食は冷めていた。
 五時限目、堺先生がやって来た。阿部先生が職員室に行って、居ない時だった。
「どうだ、高橋。保健室は」
「先生、課題とか、プリントとかないんですか?」
 おずおずと聞いた。
「お前一人だけの為にそんな特別扱いは出来ないな。高橋、お前は勉強がしたいのか?本当はしたくないんじゃないか?」
 言いながらちらりと梨佳子の方を見た。梨佳子は音を立ててカーテンを曳いた。
 二人はまだ揺れているカーテンから視線を戻した。
「勉強する気があるから学校に来ているんです。何にもしないなら、家にいても変りません」
「でも、家にいても単位は貰えないぞ」
 堺は怖い顔をして見せた。
「勉強したいならクラスに来れるだろう。勉強する気がないから来れないんだ。プリントをくれなんて言うんなら、教室に来たらいいだろう。俺が思うにはだな、お前はやる気が足らん。だからクラスメートにも迷惑をかけて、結果的に嫌われてしまったんだ。お前がやる気を見せて頑張れば、みんなもわかってくれると先生は思う。こんなことをしていて、高校受験はどうするんだ。ここにいる無駄な時間は塾に入ったって取り戻せないぞ。みんなは学校でも勉強して、塾に行っても勉強して、家に帰っても勉強するんだ」
 言い返せないでいる亜紀を見て、堺はにやっと笑った。
「お前、ひとつだけ得意な物があるだろう。美術部で頑張っているらしいじゃないか。勉強が嫌なら受験なんかしなくたって、看板描きのアルバイトやペンキ塗りでもして食べていったらどうだ?」
 亜紀は悔しさで顔が火照ってくるのを感じていた。涙がせり上がってくるのを必死でこらえた。そこへ阿部先生が戻ってきたので、堺は話を切り上げた。
「先生、どうです?高橋が迷惑かけていませんか?」なんて言って。

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* 6 * [2009年02月09日(月)]
 梨佳子は毎日様々な本を持ってくる。そして終業のチャイムが鳴るまでに持ってきた本を大抵読破してしまう。驚くべき読書欲だった。亜紀は自分のやりたいことが見つからず、とりあえず教科書を読んだり、英単語をノートに写したり、阿部先生が忙しい時は仕事を手伝ったりして過ごした。
 ある日のことだ。梨佳子が初めて自分から声をかけてきた。今まで亜紀の方から何度話しかけても返事はなかったので、梨佳子と話をすることはなかば諦めかけていた。
「高橋さんて、どうしていつも笑っているの?」
「えっ」
「教科書を読んでいる時、先生の手伝いをしている時、給食を食べている時」
「わ、私、笑ってる?」
 亜紀は普段の自分がどんな顔をしているのかなど気に止めたことがなかったので、びっくりした。
「そう、いつも笑っているの。まるで、悲しいことなんか何もないみたいに」
「悲しいことなら、私にだってあるわよ」
 少し気分を害して強い口調で言った。
「そうよ、その顔よ。みんなその顔が見たいの」
「えっ、なんのこと?」
「あなたがいつも幸せそうに笑っているからいけないの。みんなあなたの困った顔が見たかったのよ。なのにあなたは保健室登校になっても笑っているんだもの」
 亜紀は梨佳子の言わんとしていることを理解しようと努めた。
「あなたの泣いている顔が見たくてみんな来るの。斉藤も、佐野も、今井も。あの子達、私のこともいじめたわ。私が小さい頃からずっと髪を延ばしているのが気に入らないって、一度でいいからショートの私が見たいって、教室で私の髪を切ったの。嫌がって逃げた時、勢いで耳まで切られちゃったわ」
 無表情で怖いことを言う梨佳子を見て、亜紀はぞっとした。
「そ、それで?」
「あの子達、逃げちゃったの。誰も私の言うことを信じてくれなかった。お母さんが怒って先生に訴えたけど、本人がやってないって言うのに叱れません、って先生が言ったわよ。見ていた人もいないし、証拠がないって。そのうえ佐野のお母さんが怒鳴り込んできて、やってもいないことをうちの子のせいにしておとしいれた、って大騒ぎ。母は困ってもういいです、って言ったの。あの子達やり方を心得てるのよ。優等生を装って、大人を味方につけるやり方をね」
「もういいです、って言ったの?お母さん」
「そうよ」
「同じだね、うちのお母さんと。まるめ込まれちゃった、というか、負けちゃったというか」
 梨佳子は黙ったままだ。
「その時、悔しかったでしょう?」
 亜紀は梨佳子の気持ちを思うと切なかった。形はどうあれ、私達は同じように傷ついている、と思った。
「私達は悔しいって思っちゃいけないの」
 はっきりとした口調だった。亜紀はまた驚いた。
「どうして?」
「私達は弱すぎる。悔しいなんて思う価値もないほどに。生きているだけの価値もないほどに」
「そんなの、違う!あの人たちの方こそ、価値がないの。私達は違うでしょ?」
「怒るの?私に」
「ごめんなさい。あなたに怒っているんじゃない。でも、高柳さん、それは違うよ」
「違わないわよ。だって私達、教室にも行けない、集団にも入れない、保健室登校なのよ」
「悔しがっちゃいけないこととそれが関係あるの?」
「だって、私達は社会に入れないんだもの。人と同じに扱われなくて当然なのよ」
 梨佳子はさっとカーテンを曳いた。白いカーテンの向こうに梨佳子の影がうすぼんやりと映る。影が少し揺れた。
「私の居場所はここ。あなたはどうするの?」
 亜紀は答えられなかった。

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* 7 * [2009年02月09日(月)]
 翌日の朝、母は亜紀の話を聞いてびっくりし、言葉も出なかった。朝食もそこそこに玄関に向かう亜紀の手からバッグを取り上げて、
「駄目よ!」
と、強く言った。
「駄目でも行くよ。十三年間、一度も会ってないおじいちゃんだよ。どうして会わせてくれなかったの?私、会いたいの。会っていっぱいお話したい」
「待って、じゃあ、ちょっと待って。今度の休みにお父さんが帰って来たら、そしたらみんなで行きましょう」
 美智子は動揺していたし、言葉も弱くなっていた。
「でも、今日行かせて。大丈夫だから。お願い、お母さん」
 亜紀は母の手からバッグを取り返すと、玄関に出て靴を履いた。母は追って来たが、もう反対しなかった。
「行ってきます!」
 元気に出かける娘を見ながら、美智子は胸の疼きを感じていた。

 美智子は父と亜紀を会わせたくないわけではなかった。若い頃に自身の未熟さ故に父を傷付けてしまったことに対して、深い後悔を抱いていた。母が亡くなってから、父はとても苦労したと思う。友達とのいざこざがもとで学校に行けなくなって、家に閉じこもって、父の話なんて聞こうともしなかった自分。高校の教師は忙しく、帰ってくるのが遅くたって当たり前。担任している生徒の進学や就職にも気を配りながら、こんな自分勝手な私のためにいつも食事の支度をしてくれた父。勝手に札幌行きを決めた時だって、笑顔で送り出してくれた。周りの人たちの雑音を聞かせずに。
 本当は自分にもわかっていた。このまま、亜紀を会わせずに、父をひとりにしておいていいわけがないと。普通の娘と父親のようになりたいと。でも、長い時期を隔ててしまい、どうしたら普通の親子のようになれるのかがわからなかった。友達が家族連れで花見や運動会に参加しているのを見ている時など、いつも父のことを思い出していた。
 離れていた時間が長すぎて、どう接したらいいかわからなかった。謝る機会を逸してしまった気もする。だから父との関係を取り戻すことは、自分自身の仕事だと思っていた。夫でもなく、亜紀でもなく、自分で関係を修復したいと。それなのに亜紀が、行ってしまった。けれど今追いかけていったところで、口にする言葉さえ見つけられなかった。


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* 8 * [2009年02月09日(月)]
 家の裏手から道路を渡るとすぐに海が広がっている。オホーツクの海は天気によって色が様々に違う。昨日は晴れた空の色そのままに美しく輝いていたが、今日は深く冷たそうな暗さを漂わせている。昨日は母の部屋で寝た。母の寂しかった思いをかみしめながら。お母さんも学校に行けなかったのなら、私の気持ちがわかってもいいような気がする。でも、まるでそんなことは忘れてしまったみたいに、私のことを情けないって言った。社会から落ちこぼれるって。それは、お母さんが昔、言われたの?自分でそう、感じたの?自分がしたことと同じことをして欲しくないだけなの?大きな岩の上に座って、様々なことを考えた。
 うすぼんやりとした空の下、砂浜で子供たちがサッカーボールで遊んでいる。午後なのでもう学校から帰って来たのだろう。その中に自分くらいの少女がいるのに気がついた。髪が背中まで長くて、目が大きくて、ちょっと可愛いな、と亜紀は思った。ボールがこちらに転がって、その少女が取りに来たので、拾って投げてやった。
「ありがとう」
と、彼女は言って、そのボールを子供たちの方に放るとこちらに近づいて来た。
 亜紀は少しどきどきしたが、愛想よく微笑んで見せた。
「家、近いの?」
と、少女は聞いた。
 亜紀は祖父の家に来ていることを告げた。
「佐田先生のとこ?先生、孫いたんだー」
 彼女は持田サユリと名乗った。
「学校休んで来たの?もしかして、先生、具合でも悪い?」
 亜紀の祖父のことを心配そうに尋ねるサユリに対して、亜紀は好感を持った。
「ううん。元気だよ。持田さんはおじいちゃんを知ってるの?」
「先生ねえ、近所の子供に家、開放してくれるんだ。学校辞めてから寂しいみたいで、子供集めて勉強教えたり、遊んでくれたりするの。親共働きで家に誰もいない時、先生に料理教えてもらったりして、ご飯ごちそうになったりする。亜紀ちゃん、いいおじいちゃん持って幸せだよ」
 亜紀は少しうつむいた。
「でも私、三日前まで自分におじいちゃんがいること、知らなかったんだ」
「ええ〜」
 サユリは驚いて、まじまじと亜紀を見つめた。亜紀は自分の母と祖父の関係を話しながら、初めて会ったサユリにこんな話をする自分にも驚いていた。自分の中にある暗い気持ちをこんな風に人に話せるなんて。サユリの目が優しいからだろうか?亜紀は不思議に思った。
「そうなんだ。先生、寂しかっただろうね」
 うん、と亜紀は頷いた。
「亜紀ちゃんさ、今度お母さん連れて来なよ。亜紀ちゃんが仲直りさせてあげなよ」
 それが、と亜紀は言いよどんだ。自分自身が母と気まずくて、話すことと言ったらドラマや芸能ニュースの話題ばかりで、母と面と向かって大事な話をしたことがない、と亜紀は告白した。
「持田さんは、お母さんと何でも話すの?」
「さりりん、でいいよ。友だちはみんなそう呼ぶから。私もお母さんと何でも話すって訳じゃないけどさ、でも、話し合ってわかり合わないと困ることってたくさんあるじゃん。これだけはしないで、ということとかさ。一人で悩んでもどうにもならないことってあるじゃん。友だちに助けてもらう時もあるけど、友だちには言えないことってのもあるし」
「うちのお母さん、私が話しかけてもこっち向いてくれないし、いつも忙しそうなんだよね。なんか声かける暇ない、って感じ」
「それでも話しかけるんだよ。お母さんが忙しいの、当たり前じゃん。ご飯作ってる時でも、掃除機かけてる時でも、くっついて話しかけるのさ。さりなんかしつこーい、ってよく怒られるよ。でも大事なことはシツコクいわなきゃダメなのさ。だって大人って、忙しくてすぐ忘れちゃうんだもん。もうーって感じよ」
 亜紀とサユリはとめどなく話を続けた。亜紀は今までこんなに誰かと本当の気持ちを語り合ったことがあるだろうか、と自身に問うた。
 転勤で引越しがちな亜紀には、幼い時からひとつ所で住み、幼なじみがいて、一緒に学校に上がり、クラスが替わっても誰かしら知り合いがいて、などという生活は望めず、亜紀が友だちになった子にはいつももっと仲のいい友だちが先にいて、亜紀は時々自分が外されているような気がしたり、都合のいい時だけ付き合ってくれているという気持ちが拭えなかった。もしかしたら今まで誰にも心を許して来なかったのだろうか。自分の問題だったのだろうか。私がみんなを拒否してきたのだろうか?だって、初めて会ったサユリちゃんはこんなに優しくしてくれる。それは転校初日に声をかけてくれた美香ちゃんや、別れ際に走ってバスを追いかけてくれた俊平君やひかるちゃんの優しさと同じ。私は新しい生活に慣れることにのみ一生懸命で、みんなのことをちゃんと見ていなかった。みんなの気持ちを考えてあげてなかった。自分のことばかりだったんだ。
 夜、布団の中で涙を流しながら、亜紀は思った。
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* 9 * [2009年02月09日(月)]
校庭の土手に座り、野球部の練習を見るとはなしに見ながら、三人で話をした。
「亜紀ちゃん、こっちに来ればいいのに」
と、彩香が言った。
「ここの学校は古いけど、楽しいよ。佐田先生も喜ぶべさ」
「ミーシャ」
と、サユリが厳しい声で言った。
「無責任なことを言っちゃ駄目さ。私達は楽しいからいいけど、亜紀ちゃんは一から始めなきゃならないんだから。高校行ったら、バラバラになっちゃうかもしれないんだし、今のことだけ考えてたら、ダメじゃん?」
「そっか」
二人のやりとりを聞きながら、サユリは大人だな、と亜紀は感心した。サユリに誘われて、帰りに彩香と一緒に彼女の家に寄った。
サユリが家に入るなり大きな声で、
「お母さん!」
と言ったので、びっくりした。
「今日早いじゃん!何だー、友だち連れて来たのにー」
サユリの母は仕事から早く帰ってきたらしい。サユリはそれがいかにも不満という態度を取った。
「お母さんいたっていいじゃない!邪魔はしないからさ。いらっしゃい。ゆっくりしてきな」
サユリの母は洗濯物を畳みながらふと亜紀の顔を見た。
「始めて来るお友だちだねえ」
亜紀は少し緊張して、
「こんにちは。高橋亜紀です」
と、しっかり挨拶をした。
「佐田先生の孫なんだって」
サユリが冷蔵庫の中身を物色しながら言った。その言葉に、母の手が止まった。
「あんた、美智子ちゃんの子なの?」
亜紀は頷いた。
「美智子ちゃんも来てるの?」
サユリの母が勢い込んで尋ねたので、亜紀はひやっとした。
「いいえ。一人で来たんです」
サユリの母は肩を落として、ため息を吐いた。
「そう、美智子ちゃんの子か。お母さん、元気?」
「はい。母をご存知なんですね。お友達ですか?」
それには答えず、サユリの母は足早に奥の部屋へ入っていった。
「なーに?ごめんね。感じ悪くて」
サユリは言って、自分の部屋へと二人を誘った。サユリの部屋はカラフルで、ストラップやCDがたくさん置いてあった。これは彩香がくれたのだと言って、ミーシャのCDをかけてくれた。彩香が歌い出し、二人でそれを聞いた。楽しかった。今日初めて会った亜紀の前で、こんなに自由に楽しそうに歌える彩香を見てうらやましいと思った。サユリも初めて会った時から、こんな風に自然だった。
こんな風に、うちのクラスの人ともお付き合いしたいなあ。何も構えないで、気楽に話せれば。
しばらくすると、サユリの母が部屋へ来て、亜紀を呼んだ。
「お母さん、私の友だちに何?」
サユリは母に対してはきつい言い方になる。
「ちょっと、大事な話があるの。お母さんのことで」
母は亜紀だけに話したいと言ったが、彼女の青ざめた様子から見て亜紀は一人で聞きたくない、サユリたちにそばにいて欲しいと言った。サユリの母は、古い一冊のノートを亜紀に手渡した。 
亜紀が表紙をめくろうとすると、
「駄目、見ないで」
と、怖い声で言った。
「それをお母さんに渡して欲しいの。それと、これ」
白い封筒を差し出した。
「お母さん、なんなのよ、それ」
「美智子ちゃんに返すものなの」
「おばさん、お母さんの友達だったんですか?」
答えがない。サユリの母の態度を見ていると、亜紀はもしかしたら、という疑問を隠してはおけなくなった。
「お母さんが学校に行けなかったことと関係があるんですか?」
サユリの母の目にみるみる涙がせり上がった。三人はびっくりして成り行きを見守った。母はどうしてもサユリに聞かせたくない、と泣きながら言い、サユリはかえって聞きたがったが、亜紀は二人に部屋に行って待っていてくれるよう頼んだ。サユリはなかなか納得しなかったが、母は泣き続けるばかりだし、彩香にも説得されて、仕方なく部屋で待つことにした。
 サユリがいなくなると彼女は亜紀の母が学校に行けなくなったのは自分のいたずらから始まったことだ、と告白を始めた。
 亜紀の母、美智子はいつも笑顔で友達に好かれていた。嫌なことを言っても顔色も変えず、自信に輝いているように見えて、サユリの母、真弓は羨ましくてたまらなかった。美智子には付き合っている男の子がいて、交換日記を交わしていることを知り、真弓は友達とつるんでその日記を盗み取り、いやらしい言葉などを書いて、みんなに公表したのだ、と涙ながらに語った。
 その後、面白がった女の子達が話に尾ひれをつけて広めだした。真弓はそこまでするつもりはなかったのに、言い出しっぺは真弓でしょ、と言われれば、頷かざるを得なくなっていた。冗談の通じない男の子達が美智子に辛くあたり、女の子達も声をかけなくなっていった。美智子が学校を休みがちになると罪悪感を覚えたが、今更と思い謝らなかった。やったのは自分だけではない、と思ったし、美智子が負けた顔ひとつ見せなかったから。いつまで頑張るだろう、と思いながら、仲間に入れてと向こうから言ってきた時は認めよう、と仲間内で話していた。しかし、誰が日記を公表したかもわからないまま、美智子は学校に来ることを止め、卒業式にも出席しなかった。美智子が学校から去った日、初めて彼女は怒って、ノートを黒板に投げつけた。その理由は忘れたが、それは今までの全てに対する怒りだったのではないかと思った、と真弓は言う。そのノートを拾った時に心が痛んだが、返しにいけないまま今になってしまったと。
 美智子は先生の子だし、頭はいい筈なので高校には行くだろう、と真弓は勝手に思っていた。しかし、美智子は家に引きこもり、結局は中学三年のあの日を境に学校というものからすっかり身を引いてしまった。美智子が札幌に勤めに出たと聞いた時、自分が毎日のように高校の仲間とゲームセンターで遊んだり、ウインドゥ・ショッピングを楽しんだりしていることに罪悪感を感じた、と言う。あのノートを拾ったきり、美智子のことなどさっぱり忘れて、彼女の悲しみをまるで感じようともしなかったことに唐突に気がついた。それ以来自分が空虚で中身のない、まるで半身を失ってしまったかのような喪失感に悩まされた、と真弓は言った。
「ごめんなさい」
 亜紀の手をまるで美智子の手を握るようにそっと握って、サユリの母は涙をこぼした。

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* 10 * [2009年02月09日(月)]
校門のところで足を止め、亜紀は自分の学校の姿をよく見回した。サユリの学校を見た時の、新鮮な気持ちを思い出す。他の生徒達は急ぎ足に玄関に向かってゆく。突っ立っている亜紀を邪魔そうに見る奴もいる。道の真ん中に突っ立っていて、邪魔してスミマセン、と今までの私なら思っただろう、と亜紀は考える。でも、本当はどこに立とうが、どの道を歩こうが、何を選ぼうが、それは自分の自由なのだということにもう亜紀は気づいている。そして、自分で選んだら、それを続けることも止めることも自分の責任なのだ。
保健室に行くと、梨佳子がもう来ていた。いつも遅刻ギリギリに来るのに、心境の変化でもあったのかしら。私みたいに。
「おはよう。高柳さん、私、今日から教室に行くことにしたの」
梨佳子はカーテンの端から覗くようにして亜紀を見た。
「この間高柳さんが言ってたこと、いろいろ考えてみたの。言われなきゃ、わからなかったかも知れない。だから、ありがとう」
梨佳子は興味なさそうにまたベッドに横になった。私はあなたを誘うことはしない、と亜紀は心の中で梨佳子に言った。教室に戻るか、ここにいるか、選ぶのはあなただもの。でも、私が成功したら、あなたにも戻って来て欲しい。本当は。
教室に行くためには努力がいるし、元のようになるためには頑張らなければならないけれど、私はやれる。だって、それが今一番やりたいことだから。
幸い亜紀の席はまだ誰にも譲られることなくそのままにあった。亜紀が教室に入るやいなや、生徒達は楽しげなおしゃべりを止め、亜紀が鞄から教科書などを机に入れるのを見守った。亜紀は椅子に座って深呼吸した。黒板が見えた。クラスメート達が見えた。斉藤美沙と佐野恵美が仲間を集めてひそひそとやっている。気にするものか、と亜紀は度胸を据えた。本当は少しどきどきしてる。胸が痛くなりそうに、どきどきしてる。その時、後ろから思い切り肩を叩かれ、心臓が口から飛び出しそうになった。
「来たじゃん!高橋ー」
及川卓也だった。顔は三枚目だが明るくて、男子にも女子にも人気がある。
「よっ、元気だった?」
卓也の笑顔につられ、亜紀も笑った。
「うん、元気!」
まだ始まったばかり。亜紀は自分に言い聞かす。二年D組。今はまだ居心地悪いけど、そのうちにきっと私の居場所にしてみせる。

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* 11 * [2009年02月09日(月)]
夏休み、斜里の海岸にすっかり日焼けした亜紀の姿があった。毎日さりりんとミーシャと遊び回って、夏休みをエンジョイしている。
学校には休まず行っている。及川卓也や山本純など、男の子の友達が数人できた。男の子はさっぱりしていていい。時々、佐野や斉藤が嫌がらせをしてくるが、亜紀は気にしないように努めている。卓也や純がいたずらを諌めてくれる時もある。物が無くなった時は、
「なくなりました」
と、言えばいい。
掃除をしない女子には、
掃除して!」
と、言うことにした。それでなにか言ってきても、前と同じだけだし、と開き直れる気持ちになった。
部活の後輩も慕ってくれるし、学校も捨てたもんじゃない、と思えるようになった。
祖父の家からエプロン姿の母が出て来て、亜紀を呼ぶ。
「ご飯だから、三人とも帰っといでー」
美智子の後ろで、カーテンが風になびいている。
部屋はきれいに掃除され、古い雑誌や教科書は縛られて廃品回収を待つのみだ。机も外に出し、亜紀だけでなく、美智子も夫も泊まれるように広くした。父は美智子に食べさせたいと、浜まで魚を買いに行ってくれた。その魚と、真由美がサユリに持たせてくれたサラダが今日の昼ご飯。
サユリが足についた砂を払う。
「可愛いミュールだね」
亜紀がほめる。
「亜紀ちんも買えばー?お揃いのやつ」
彩香が自分の足元も見せる。サユリのミュールとは色違いである。
二人は同じ学校へ行き、重なる時間がたくさんある。亜紀は時々メールでふたりと繋がっているが、一緒にいられる時間は短い。けれど、離れていることで程よい距離が保てるのかもしれない。 
お世辞もなく、嫌味もなく、あるがままの姿を受け入れあえるトモダチ。
「亜紀ちん、のちん、は止めてよねー」
と、亜紀は顔をしかめる。
「じゃあ、あっきーにする?」
「それもいまひとつだね」
サユリが笑う。
亜紀は海に向かい、大きく伸びをした。水平線から海岸へと白い波が打ち寄せる。波は広げた両手を繋ぐかのように他の波と混ざり、打ち解けあい、押し寄せる。人も同じだ。手を繋ぎ、打ち解け、一緒になれる。自分さえ、そうすれば。
「私、来て良かったな!ここ」
夏休みはまだ始まったばかり。生きることも、これから始める。


「ヒューマン」37号(2004年秋・ヒューマン刊行会)、「ヒューマン」38号
(2005年秋・同)に掲載のものに一部加筆、修正致しました。