イデアさんからのコメントから、ちょいと火が付いちゃったので紹介いたしましょう。
獅子王の幕末BEST.3キャラ2位の
ジュール・ブリュネさま
ちなみに1位は不動の中学・高校と毎週の様に墓参し墓
掃除し続けた、鬼の新選組副隊長・土方歳三さま
3位が岡田以蔵。1位2位すっ飛ばして3位の漫画描いてるんだよ
でも土方さんは中学〜短大まで新選組でサークル活動していたし、沢山描いている人いるからいいかなと……。
一番の問題はこのジュール・ブリュネさま……。知名度が低すぎて幕末ファン(幕末ファンは皆、日本人の誰かのファンなんだよ
私もだけど………。ブリュネの名前出すと、幕末ファンの人にすら誰それ
と言われて会話が成立しないんだよ
シクシク)
なので簡単に説明しましょう。まずはこちらの本を読めば、ばっちり解るんですけど。
中央公論社から昭和63年に発行されている「函館の幕末・維新 フランス仕官ブリュネのスケッチ100枚」っていう本。シールで価格が貼ってあって定価1650円って書いてあるから、消費税が導入される前の本ですな………。多分とっくの昔に廃刊になっているからネットで探さないと見つからないでしょう……。
幕末・新撰組関係の本は友達が新撰組にはまった時に譲っちゃったから、手元にほとんど資料が無いんですけど。これは手放さなかったお気に入りの1冊。土方さんの写真はいくらでもあるしね
ブリュネは、物凄く絵が上手な方なので中に掲載されているスケッチを少し紹介しましょう。
幕末の王子辺りの風景画です。写真が白黒の銀板写真しかない時代ですから、風景画もピンボケの時代……。この方の残してくれた日本の風景のスケッチは資料として貴重です。
そして、私がブリュネに対して親近感を抱かせてしまったスケッチの1枚……。
フランス語を話す日本人ジツタロウ
(愛称アラミス)
出たーーーっ
時代がばっちりとデュマが新聞小説で「ダルタニャン物語(三銃士はその第1部)」と一致していることから、ジュール・ブリュネはダルタニャン物語のファンと見たね
だって、この後の彼の行動は、この「函館の幕末・維新」には日本のダルタニャンと書かれていましたけど、どちらかというと「ダルタニャン物語」の20年後編のアトスことラ・フェール伯爵さまそっくりでしたわよ
20年後の影響を受けて小説同様な行動に出たのではないかと、疑ってます。
だって「アラミス」なんて、愛称をいきなりつけるなんて……。20年後編でアトスがイギリス国王の処刑を阻むために共に行動したのはアラミスだしー。(ダルタニャン物語が好きで、なおかつ幕末も好きじゃあないと話わからないって
………今の所、説明して解ってくれそうなのゆにこちゃんぐらいしか思い当たらない……)
残したスケッチの1枚……。何か右側の人が土方歳三に似ているような気がしてならない。
どうしよう土方さんのこと描いたスケッチだったら
あと、とりあえずブリュネの写真。表紙の前列左から2番目にも写ってるけど。
メッチャ美形です
土方歳三並に美形です
で…本題に戻って簡単にブリュネのことですが元々は幕府がフランスから召集した軍事教官でした。徳川幕府が軍隊の洋式化を計り反幕府勢力を押さえるために京王元年にフランス公使ロッシュに依頼したのが、ようやく慶応三年に来て幕臣のフランス式軍事訓練を始めるんですけれど、慶応三年の10月には大政奉還して徳川幕府がなくなちゃったんですねえ。
で…本来ならば、この幕府側に召集されたフランス軍仕官達は仕事を依頼した徳川幕府そのものが無くなってしまったのですからフランスに帰るのが当然でしたし、フランス公使はブリュネ等徳川幕府軍の軍事顧問を解雇し、帰国命令を出します。
1つの国の中で2つに分かれての内戦状態でしたからフランス国としては書く国際関係上中立の立場で、どちらかの軍医関係することは難しいという理由で帰国を勧めますが、ブリュネを筆頭にしたフランス軍仕官たちは、自国フランス軍籍を離れて教え子である旧幕府軍と共に戦う決意をします。
フランス皇帝ナポレオン3世に次のような手紙を送っています。
「陛下
陛下のご命令によって日本に派遣された私は、私の同僚士官たちと共に、陛下の御意に添うべく力を尽くしてまいりましたが、日本の内戦により帰国を余儀なくされる事態となりました。しかしながら私は日本にとどまり、フランスに好意をよせる来たの大名たち(奥羽列藩同盟)と共に、わが伝習使節団が達成した成果を明らかにする覚悟であります。
北の大名たちは、私に南の大名たち(薩長同盟)に対抗する組織の中心になるように求めております。私はその求めを受け容れました。かつて我が使節団が伝習を授けた幕軍士官1000名の補佐を受けるならば、私には5万の同盟軍を率いることも可能であるからであります。
伝習教官全員をフランスに連れ帰るぬんむを与えられた使節団長シャノワンヌ大尉、及び公式には中立の立場をとらざるをえないウトレイ公使を巻き添えにすることを避けるため、私は辞表を残して横浜をさるべきであると考えたのです。
私はたしかに、フランス軍士官としての私の将来を危険にさらしております。しかし私は、幕軍とともに戦う決心をするにあたり、彼等が必ずや私の助言に従うであろうという確信を抱く事ができたのであります。日本人がヨーロッパ人に対して、かくも大きな信頼を寄せたことはかつてないことでありましょう。彼等の信頼に応えるには、ひいては陛下にお仕えすることに繋がると私は信じたのであります。心ならずも軍規を違反した私をお許し下さいますように。
この違反は重大なものであることを私は承知しております。なぜならば私は、陸軍大臣閣下の承認なしに自由な行動をとってはならなかったからであります。しかし陸軍大臣閣下の承認がこの国に届くまでの6ヶ月間、ただ座して待つことは、軍事行動における好機を徒に逸することに繋がることでありましょう。
薩長軍は既に疲労が見え初めており、内紛が彼等の力を殺いでいるとはいえ、われらの行く道は困難なものであります。反フランスの立場をとる薩長軍の中には多数のアメリカ合衆国軍、およびイギリス軍の士官が参加しております。
私は陛下が御自ら私に賜った十字架にかけて、この国の為にフランスの大義を広めるために全力を尽くすことを誓うものであります。もし幸いにして、陛下が私のささやかな行動を嘉せらるならば、私にとってこれに勝る慰めはありません。
横浜 1968年10月4日
陛下の忠実な臣、ジュール・ブリュネ砲兵大尉
在日フランス伝習使節団」
この手紙を残して、ブリュネと行動を共にする9人のフランス士官が軍籍を離れ軍規を犯してまでも、日本にとどまり列藩同盟軍と共に戊辰戦争を戦い続けてくれ、戊辰戦争最終決戦の地、箱館戦争の終結まで旧幕府軍と共に戦い、蝦夷の地に徳川家をお迎えして蝦夷共和国を建国に助力したのですが、結局蝦夷共和国は幻の国となったのでした……。(この辺りを、「人斬り」の後に描こうと思っていたらしい)
列藩同盟旧幕府軍敗戦の時にブリュネ等はフランス軍艦に助けられ、母国フランスに帰国します。
が後に、新政府に入閣した榎本武陽が明治天皇に奏上しブリュネは明治天皇から2度の勲章を受けています。
どういう、内容で旧幕府軍に最後まで加わって戦ったブリュネに勲章が2度も与えられたのかは解りませんが……。勲章貰っちゃうところまでアトスと同じね
ブリュネさま
という感じで、簡単に説明させて頂きました。ようはフランス人なのに旧幕府軍の為にフランス軍籍まで捨てて戊辰戦争をよくぞ一緒に旧幕府軍と一緒に箱館戦争まで戦ってくれました
ありがとうブリュネ
フランスの騎士道精神を見せてもらいましたよ
だから私にとっての実在の外国人ラストサムライはフランス軍人のジュール・ブリュネさまなのです。