顔のない街の中で [2012年02月19日(日)]
福島から帰ってきた。
南相馬市民文化会館【ゆめはっと】 にて、
『南相馬ダイアログフェスティバル 〜みんなで未来への対話をしよう〜』
というイベントが昨日・今日と開催されていてね
昨日の10時前に出発して15時前に現地に着き、今朝は7時に現地を発って正午頃に帰宅、というまる1日もない滞在で、もっと話を聴きたいひとが大勢いたので、とても後ろ髪ひかれる思い。
17:30〜20:00の、
「柳美里さんと一緒に物語を作るワークショップ」
がいちばんの目的だったので、整理券を確保するために早めに着いた。
この企画が告知された時から、行きたいとは思っていながら、同じ日にかぶる可能性のある予定があってなかなか確定しなかったので、よし行こう、と決められたのが2日前の夜という慌しさ。
ワークショップの終了が20時予定、とはいってもこういうのは予定時間がおす可能性があるし(事実、昨日も1時間おしてしまった)、時節と場所柄、交通ルートや宿泊施設が平常通りじゃない状態だから、行きはともかく帰りをどうすればいいものかと一瞬悩んだけれど、まあいいや、電車の便が悪くてもタクシーは走っているのだし、ゆったりしたホテルはなくてもラブホテルの類で仮眠くらいならできよう、お財布さえ持っていればどうにでもなる、と、行き当たりばったりで出かけてしまった。
こんなの、人生初。
母が見たら卒倒するに違いない!?(笑)
早めに着いたので、メインロビーで子供たちの手書きメッセージや掲示物をひととおり見てから、美里さんの楽屋へお邪魔して何やかやと話したり、駅前のコンビニまで散歩に出たりした。
震災以降、南相馬の町は、私が想像していた以上に過疎化が進んでいるという。
もとは活気のある商店街だったのであろう、ホールから駅までの一本道は、○○電器、××ヘアサロン、生活雑貨の△△、などと書かれたシャッターが下りたままの店がほとんどだった。
駅も、道も、静かだ。
街並みが、眸を伏せているように思えた。
目をとじて眠っているわけでも、諦めているわけでもなく、かといってマスコミが声高らかに叫ぶような、頑張ろう東北! とか、復興のために力を合わせて! とかいう空元気もない。
自分が今いる場所の足もとをしっかり見つめ、傍にいるひとの手を黙って握る、ような。
今、日本中のあちこちにあふれ返る、頑張ろう! という言葉の難しさを思う。
「いつになったら 外であそべますか」(小2・女子)
「いつか みんなでうちにかえることはできますか」(小3・男子)
「土とか葉っぱとか 自然にさわってもいいようになりますか」(小4・女子)
「放射能は いつなくなりますか」(小5・男子)
「私は将来 赤ちゃんを生めますか」(中2・女子)
ホールのロビーに掲示された、桜の樹の形をした大きいメッセージボード 『今いちばん知りたいこと』 には、小中学校の子供たちの言葉が書かれた花びらがひしめいていた。
子供ばかりではない。
「愛犬を外の庭で飼っていてもいいのか心配です」
「あれ食べちゃダメ これしちゃダメ と言われっぱなしで生活している子供の気持ち・・・。」
大人も悩む。
誰も明確で安心できる答えを出せないことに悩み続け、考え続け、答えが出ないままもうすぐ1年がたつ。
悩むくらいなら引越せばいいじゃないか、本気で子供の安全を考えるなら、お金だの仕事だの、そんなのどうにだってなるでしょう? みたいなことを、親しかったはずの親族や友人から言われることも珍しくはないという。
たとえば震災の後、一時的にせよ引越し(避難)をしたひと、しなかったひと、したくてもできなかったひと、できてもしなかったひと、家族一緒に動いたひと、ばらばらになったひと、避難先から福島に戻ったひと、戻らないままのひと・・・・・・
そういう分け方をした時に同じひとくくりに入るとしても、そこに至った経緯は、想像も及ばないほどばらばらにかけ離れていて、まして誰の、どの選択が正しいわけでも間違っているわけでもない。
昨日のワークショップの参加者の中でも、避難しなかった理由はさまざまだ。
たとえば寝たきりで動かせない家族がいるとか、家計や仕事の問題というのは、わかりやすいネックとしてマスコミでもわりあい取り上げられるけれど、そんなことばかりじゃなく。
同じアパートの近所に、足の不自由なひとが住んでいるから、そのひとを置き去りにして自分だけ逃げるなんてできなくて、と言った年配の女性がいた。
あるいは、家長であるお父さんの意見が絶対で、若い世代は避難したいと考えていてもそんなことは口に出せなかった、と言った男性もいた。
一旦は家族で避難したものの、独りで帰宅した若い女性もいた。
自分が生まれ育った街で、家で、自分の部屋で、とにかく眠りたかったのだと。
親戚や友人を頼って身を寄せたものの、やっぱり長くは居られなくて・・・ と言ったひともいた。
大勢のひとが亡くなったことを知って、お客様から預っている喪服をお返ししなきゃいけないと、避難先から戻ったクリーニング屋さんもいた。
・・・でも実際は、誰ひとり喪服を引取りになど来なかったそうだ。
喪服を着てきちんとお葬式などする余裕は誰にも、どこにもなかったからだ。
マスコミでは、日本人はどんな時でも思いやりを忘れず譲り合う礼儀正しいひとびとで、海外からも称賛され・・・ というイメージばかりを流し続けたけれど、あの当時は、避難するためのガソリンを求めて殴り合いの暴動が起き、女性の胸倉をつかんだり子供を突き飛ばしたりするひとも珍しくはなく、あるスタンドでは今ならいくら高くても売れるとばかりに倍以上の高値に跳ね上がり・・・ ということが実際にあった。
そういうことは報道されない。
戦争経験者であるお年寄りの、
「今の、この状態は戦時中や戦後の混乱よりひどいよ」
という言葉も。
子育て中のお母さんたちの、
「子供をしつけることも叱ることもできなくなった。我慢させて、不安にさせて、健康さえおびやかして、かわいそうで、申し訳なくて、つい言いなりになってしまう・・・」
という声も。
子供の肥満や糖尿病、学校でのいじめなどが増えているという現実も。
報道はされないけれど、今ここにあること。
見ようとしなければ見えないものが多すぎる。
聴こうとしなければ聴こえない、知ろうとしつづけなければ知らないままになることが、あまりにも多すぎる。
こんなちっぽけな国の中で、知らないままにしていてはいけないことが多すぎる。
知らなきゃ始まらない。
知るためには、見て、聴いて、感じなきゃ始まらない。
1年もたってからだけれど、今さら とは思いたくない。
今さら じゃないものね。
時間はたったけれど、何ひとつ、解決も復興もできていないんだから。
「被災地では・・・」「被災者の現状は・・・」「復興をめざした活動が次々と・・・」
そんな十把ひとからげの言葉でまとめて、重たい話はもう飽きたよとばかりに耳ざわりのいいエピソードだけ並べて見せながら、ニッポンは元気だ、さあ、風評被害対策だ、食べて応援、それ、オリンピック誘致だ!
それらがすべて悪いとは言わないが、それらより先にやることはもっとあるはず、よね。
ワークショップの終了後、美里さんやスタッフの皆さんに交じって飲みに行った。
タクシーをあらかじめ呼んでおかないと都会みたいに夜遅くまでは営業していないよ と言われたので、0時に店の前に来てくれと電話予約しておき、ちょうどそのくらいの時間に解散となった。
タクシーが来たらさっと挨拶して消えるつもりだったのが、
「さくらさん、じゃあまた明日ね!」
と言われ、
「いや、明日も参加したかったんですけど、帰らなきゃならなくて」
と答えてしまったものだから、会話の流れで宿の手配がないことがばれてしまい、
「えーっ、宿とってないの!? ダメだよそんなの、心配だから!」
と数人の女性スタッフの皆さんがあちこちに電話連絡してくれて、あれよあれよという間に、ワークショップ参加者のひとりだったクリーニング屋のTさんのお宅に泊めていただくことになった。
ありがとうゴザイマス・・・m_ _m
Tさんの家に着くと、当初からお泊まりの予定だった男性スタッフ5人が、みんなのお母さん的なTさんとともに食卓を囲んでいるところで(笑)
さっきまで一緒に呑んでいて、さようならと別れた直後のオマヌケな再会に、申し訳なくもあたたかくて、ほっとして、コンビニおでんをつつきながらワインを飲んで、またいろいろな話を聴いた。
柳美里さんの友達なんだよね、柳さんってどんなひと? どこで知り合ったの? などとも訊かれた。
どんなひと、ってね、一言で説明するの難しいよね。
私も、どんなひと、って一言で説明なんかされたくないしね(笑)
おっちょこちょいで、生真面目で、不器用で、優しいひとだ と答えたけれど、そんな言葉じゃ到底足りない。
大好き。
いわゆる一目惚れの多い私が、唯一そうでなかったのが美里さん。
学生時代、中毒のように読みふけってはいたけれど、友人たちに、好きな作家なのか、面白いのか、と訊かれると否定していたから。
面白いってわけじゃないし、やたら疲れるし、と言いながら口をへの字にして睨むように読みふける私の姿が怖かったと、後になってから結構言われた。
いつのまにか、気づいたら途方もなく好きだったんだよなぁ・・・。
かけがえのない、大切なオンニ。
信頼もしている。感謝もしている。
「他人の痛みを痛むことはできない」という、そのどうしようもない痛みの中にまっすぐ立って目を逸らさない真摯さを尊敬もしている。
でも、つまるところ、単純に大好きで、慕わずにいられないだけ。
美里さんと出逢っていなかったら、開いてはいなかったであろう扉 というのがかなりある。
開くどころか、存在に気づきもしなかった扉。
きっかけ、動機、物事のはじまり。
愛読者のひとりを経てサイトスタッフに加わり、友達と呼ばれるようになっても、美里さんを大好きなのはなぜか、なんて理由は的確に言いきれない。
でも、感謝している理由は言える。
いくつもの動機を、私に与えてくれたことだ。
「震災と原発の被災地」 と決してイコールではない南相馬という場所と、そこに生きるひとたちと私を引き合わせてくれて、ありがとうございました、美里さん。
行き当たりばったりの結果、初対面なのにいきなり泊めていただいて、ありがとうございました、Tさん。
“おふかし” のおむすび、美味しかったです。
あ、おふかしというのは、お赤飯の色なしバージョンみたいなもので、餅米に白いんげんをまぜて炊いて、もとい、ふかして作るもの、なんですって。
美味しいものをいただいて、強く優しい心持ちのひとたちと関わり合って、美しい雪景色を見て・・・こんな短い滞在でも、今ここが、
「放射能に汚染された街」
と避けて通りたいようなイメージで見られている事実があると思うと、胸が詰まる。
たしかに、放射線量は東京の5倍近い数値がある。
起きてしまったことは変えられない。
怒っても、嘆いても、悔やんでも、責めても、詫びても、何をしても変えられない。
それならせめて、ちゃんと知ろうとすることから始めたい、と思う。
一般のひとよりそういう技術や方法や知識を多くもっているマスコミや政治の関係者、あなたたちこそ誰よりも頑張って、生の声をたくさんたくさん聴いて、ひとまとめじゃなく、美談じゃなく、わかったふりじゃなく、正直に正確に伝えて共有させてよ、と願う。
“ 見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを 物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう 見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で ”
―― 中島みゆき 『顔のない街の中で』
知ったようなつもりになっているところからは、何も始まらない。
私は知らない、私にはわからない、想像も及ばない、という切ない事実をきちんと受け止めて、知ろうとすれば。
少なくとも、マスコミ報道でよく名前があがる地域を 「被災地」 「放射能汚染の地」 と決めつけて心身を遠ざけたり、その場所を離れたひとたちを神経質な臆病者だと責めたり、逆に住み続けているひとたちを頑固者だと哂ったりすることはなくなるだろう。
福島県産の野菜や果物を幼い我が子に食べさせることに、たえまない不安や迷いや罪悪感を抱くお母さんは(自宅や実家、親しいご近所さんなどが農家の場合はなおさら・・・)福島県内にもとても多い、という、誰にも正解の出せない現実がわかれば、テレビで同じ報道を見ても、スーパーで同じ産地表示を見ても、また違った感じ方ができることもあるだろう。
最近、昔よりはちょっとばかり正直者になったのか、わりと達者だったはずの言葉が心に追いつかなくなってはがゆい思いをすることが増えた。
今も、書きながら、いろんな過不足は感じているのだけれど・・・
南相馬は私にはもう、見知らぬひとが住む見知らぬ街ではなくなった、という話。
はにかんで頬を赤らめていた7歳のひぃちゃんの笑顔。
家族を守るために捨て身で闘ったユミさんの凛々しい目。
「ちゃんと会社動かして、仕事するの」 と言い切ったミカコさんの声。
出逢ってくれてありがとうございました。
また、逢いに行きます。
私は記者でもルポライターでもないけれど、また、いろいろな話を聴かせてください。
きっと。
南相馬市民文化会館【ゆめはっと】 にて、
『南相馬ダイアログフェスティバル 〜みんなで未来への対話をしよう〜』
というイベントが昨日・今日と開催されていてね
昨日の10時前に出発して15時前に現地に着き、今朝は7時に現地を発って正午頃に帰宅、というまる1日もない滞在で、もっと話を聴きたいひとが大勢いたので、とても後ろ髪ひかれる思い。
17:30〜20:00の、
「柳美里さんと一緒に物語を作るワークショップ」
がいちばんの目的だったので、整理券を確保するために早めに着いた。
この企画が告知された時から、行きたいとは思っていながら、同じ日にかぶる可能性のある予定があってなかなか確定しなかったので、よし行こう、と決められたのが2日前の夜という慌しさ。
ワークショップの終了が20時予定、とはいってもこういうのは予定時間がおす可能性があるし(事実、昨日も1時間おしてしまった)、時節と場所柄、交通ルートや宿泊施設が平常通りじゃない状態だから、行きはともかく帰りをどうすればいいものかと一瞬悩んだけれど、まあいいや、電車の便が悪くてもタクシーは走っているのだし、ゆったりしたホテルはなくてもラブホテルの類で仮眠くらいならできよう、お財布さえ持っていればどうにでもなる、と、行き当たりばったりで出かけてしまった。
こんなの、人生初。
母が見たら卒倒するに違いない!?(笑)
早めに着いたので、メインロビーで子供たちの手書きメッセージや掲示物をひととおり見てから、美里さんの楽屋へお邪魔して何やかやと話したり、駅前のコンビニまで散歩に出たりした。
震災以降、南相馬の町は、私が想像していた以上に過疎化が進んでいるという。
もとは活気のある商店街だったのであろう、ホールから駅までの一本道は、○○電器、××ヘアサロン、生活雑貨の△△、などと書かれたシャッターが下りたままの店がほとんどだった。
駅も、道も、静かだ。
街並みが、眸を伏せているように思えた。
目をとじて眠っているわけでも、諦めているわけでもなく、かといってマスコミが声高らかに叫ぶような、頑張ろう東北! とか、復興のために力を合わせて! とかいう空元気もない。
自分が今いる場所の足もとをしっかり見つめ、傍にいるひとの手を黙って握る、ような。
今、日本中のあちこちにあふれ返る、頑張ろう! という言葉の難しさを思う。
「いつになったら 外であそべますか」(小2・女子)
「いつか みんなでうちにかえることはできますか」(小3・男子)
「土とか葉っぱとか 自然にさわってもいいようになりますか」(小4・女子)
「放射能は いつなくなりますか」(小5・男子)
「私は将来 赤ちゃんを生めますか」(中2・女子)
ホールのロビーに掲示された、桜の樹の形をした大きいメッセージボード 『今いちばん知りたいこと』 には、小中学校の子供たちの言葉が書かれた花びらがひしめいていた。
子供ばかりではない。
「愛犬を外の庭で飼っていてもいいのか心配です」
「あれ食べちゃダメ これしちゃダメ と言われっぱなしで生活している子供の気持ち・・・。」
大人も悩む。
誰も明確で安心できる答えを出せないことに悩み続け、考え続け、答えが出ないままもうすぐ1年がたつ。
悩むくらいなら引越せばいいじゃないか、本気で子供の安全を考えるなら、お金だの仕事だの、そんなのどうにだってなるでしょう? みたいなことを、親しかったはずの親族や友人から言われることも珍しくはないという。
たとえば震災の後、一時的にせよ引越し(避難)をしたひと、しなかったひと、したくてもできなかったひと、できてもしなかったひと、家族一緒に動いたひと、ばらばらになったひと、避難先から福島に戻ったひと、戻らないままのひと・・・・・・
そういう分け方をした時に同じひとくくりに入るとしても、そこに至った経緯は、想像も及ばないほどばらばらにかけ離れていて、まして誰の、どの選択が正しいわけでも間違っているわけでもない。
昨日のワークショップの参加者の中でも、避難しなかった理由はさまざまだ。
たとえば寝たきりで動かせない家族がいるとか、家計や仕事の問題というのは、わかりやすいネックとしてマスコミでもわりあい取り上げられるけれど、そんなことばかりじゃなく。
同じアパートの近所に、足の不自由なひとが住んでいるから、そのひとを置き去りにして自分だけ逃げるなんてできなくて、と言った年配の女性がいた。
あるいは、家長であるお父さんの意見が絶対で、若い世代は避難したいと考えていてもそんなことは口に出せなかった、と言った男性もいた。
一旦は家族で避難したものの、独りで帰宅した若い女性もいた。
自分が生まれ育った街で、家で、自分の部屋で、とにかく眠りたかったのだと。
親戚や友人を頼って身を寄せたものの、やっぱり長くは居られなくて・・・ と言ったひともいた。
大勢のひとが亡くなったことを知って、お客様から預っている喪服をお返ししなきゃいけないと、避難先から戻ったクリーニング屋さんもいた。
・・・でも実際は、誰ひとり喪服を引取りになど来なかったそうだ。
喪服を着てきちんとお葬式などする余裕は誰にも、どこにもなかったからだ。
マスコミでは、日本人はどんな時でも思いやりを忘れず譲り合う礼儀正しいひとびとで、海外からも称賛され・・・ というイメージばかりを流し続けたけれど、あの当時は、避難するためのガソリンを求めて殴り合いの暴動が起き、女性の胸倉をつかんだり子供を突き飛ばしたりするひとも珍しくはなく、あるスタンドでは今ならいくら高くても売れるとばかりに倍以上の高値に跳ね上がり・・・ ということが実際にあった。
そういうことは報道されない。
戦争経験者であるお年寄りの、
「今の、この状態は戦時中や戦後の混乱よりひどいよ」
という言葉も。
子育て中のお母さんたちの、
「子供をしつけることも叱ることもできなくなった。我慢させて、不安にさせて、健康さえおびやかして、かわいそうで、申し訳なくて、つい言いなりになってしまう・・・」
という声も。
子供の肥満や糖尿病、学校でのいじめなどが増えているという現実も。
報道はされないけれど、今ここにあること。
見ようとしなければ見えないものが多すぎる。
聴こうとしなければ聴こえない、知ろうとしつづけなければ知らないままになることが、あまりにも多すぎる。
こんなちっぽけな国の中で、知らないままにしていてはいけないことが多すぎる。
知らなきゃ始まらない。
知るためには、見て、聴いて、感じなきゃ始まらない。
1年もたってからだけれど、今さら とは思いたくない。
今さら じゃないものね。
時間はたったけれど、何ひとつ、解決も復興もできていないんだから。
「被災地では・・・」「被災者の現状は・・・」「復興をめざした活動が次々と・・・」
そんな十把ひとからげの言葉でまとめて、重たい話はもう飽きたよとばかりに耳ざわりのいいエピソードだけ並べて見せながら、ニッポンは元気だ、さあ、風評被害対策だ、食べて応援、それ、オリンピック誘致だ!
それらがすべて悪いとは言わないが、それらより先にやることはもっとあるはず、よね。
ワークショップの終了後、美里さんやスタッフの皆さんに交じって飲みに行った。
タクシーをあらかじめ呼んでおかないと都会みたいに夜遅くまでは営業していないよ と言われたので、0時に店の前に来てくれと電話予約しておき、ちょうどそのくらいの時間に解散となった。
タクシーが来たらさっと挨拶して消えるつもりだったのが、
「さくらさん、じゃあまた明日ね!」
と言われ、
「いや、明日も参加したかったんですけど、帰らなきゃならなくて」
と答えてしまったものだから、会話の流れで宿の手配がないことがばれてしまい、
「えーっ、宿とってないの!? ダメだよそんなの、心配だから!」
と数人の女性スタッフの皆さんがあちこちに電話連絡してくれて、あれよあれよという間に、ワークショップ参加者のひとりだったクリーニング屋のTさんのお宅に泊めていただくことになった。
ありがとうゴザイマス・・・m_ _m
Tさんの家に着くと、当初からお泊まりの予定だった男性スタッフ5人が、みんなのお母さん的なTさんとともに食卓を囲んでいるところで(笑)
さっきまで一緒に呑んでいて、さようならと別れた直後のオマヌケな再会に、申し訳なくもあたたかくて、ほっとして、コンビニおでんをつつきながらワインを飲んで、またいろいろな話を聴いた。
柳美里さんの友達なんだよね、柳さんってどんなひと? どこで知り合ったの? などとも訊かれた。
どんなひと、ってね、一言で説明するの難しいよね。
私も、どんなひと、って一言で説明なんかされたくないしね(笑)
おっちょこちょいで、生真面目で、不器用で、優しいひとだ と答えたけれど、そんな言葉じゃ到底足りない。
大好き。
いわゆる一目惚れの多い私が、唯一そうでなかったのが美里さん。
学生時代、中毒のように読みふけってはいたけれど、友人たちに、好きな作家なのか、面白いのか、と訊かれると否定していたから。
面白いってわけじゃないし、やたら疲れるし、と言いながら口をへの字にして睨むように読みふける私の姿が怖かったと、後になってから結構言われた。
いつのまにか、気づいたら途方もなく好きだったんだよなぁ・・・。
かけがえのない、大切なオンニ。
信頼もしている。感謝もしている。
「他人の痛みを痛むことはできない」という、そのどうしようもない痛みの中にまっすぐ立って目を逸らさない真摯さを尊敬もしている。
でも、つまるところ、単純に大好きで、慕わずにいられないだけ。
美里さんと出逢っていなかったら、開いてはいなかったであろう扉 というのがかなりある。
開くどころか、存在に気づきもしなかった扉。
きっかけ、動機、物事のはじまり。
愛読者のひとりを経てサイトスタッフに加わり、友達と呼ばれるようになっても、美里さんを大好きなのはなぜか、なんて理由は的確に言いきれない。
でも、感謝している理由は言える。
いくつもの動機を、私に与えてくれたことだ。
「震災と原発の被災地」 と決してイコールではない南相馬という場所と、そこに生きるひとたちと私を引き合わせてくれて、ありがとうございました、美里さん。
行き当たりばったりの結果、初対面なのにいきなり泊めていただいて、ありがとうございました、Tさん。
“おふかし” のおむすび、美味しかったです。
あ、おふかしというのは、お赤飯の色なしバージョンみたいなもので、餅米に白いんげんをまぜて炊いて、もとい、ふかして作るもの、なんですって。
美味しいものをいただいて、強く優しい心持ちのひとたちと関わり合って、美しい雪景色を見て・・・こんな短い滞在でも、今ここが、
「放射能に汚染された街」
と避けて通りたいようなイメージで見られている事実があると思うと、胸が詰まる。
たしかに、放射線量は東京の5倍近い数値がある。
起きてしまったことは変えられない。
怒っても、嘆いても、悔やんでも、責めても、詫びても、何をしても変えられない。
それならせめて、ちゃんと知ろうとすることから始めたい、と思う。
一般のひとよりそういう技術や方法や知識を多くもっているマスコミや政治の関係者、あなたたちこそ誰よりも頑張って、生の声をたくさんたくさん聴いて、ひとまとめじゃなく、美談じゃなく、わかったふりじゃなく、正直に正確に伝えて共有させてよ、と願う。
“ 見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを 物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう 見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で ”
―― 中島みゆき 『顔のない街の中で』
知ったようなつもりになっているところからは、何も始まらない。
私は知らない、私にはわからない、想像も及ばない、という切ない事実をきちんと受け止めて、知ろうとすれば。
少なくとも、マスコミ報道でよく名前があがる地域を 「被災地」 「放射能汚染の地」 と決めつけて心身を遠ざけたり、その場所を離れたひとたちを神経質な臆病者だと責めたり、逆に住み続けているひとたちを頑固者だと哂ったりすることはなくなるだろう。
福島県産の野菜や果物を幼い我が子に食べさせることに、たえまない不安や迷いや罪悪感を抱くお母さんは(自宅や実家、親しいご近所さんなどが農家の場合はなおさら・・・)福島県内にもとても多い、という、誰にも正解の出せない現実がわかれば、テレビで同じ報道を見ても、スーパーで同じ産地表示を見ても、また違った感じ方ができることもあるだろう。
最近、昔よりはちょっとばかり正直者になったのか、わりと達者だったはずの言葉が心に追いつかなくなってはがゆい思いをすることが増えた。
今も、書きながら、いろんな過不足は感じているのだけれど・・・
南相馬は私にはもう、見知らぬひとが住む見知らぬ街ではなくなった、という話。
はにかんで頬を赤らめていた7歳のひぃちゃんの笑顔。
家族を守るために捨て身で闘ったユミさんの凛々しい目。
「ちゃんと会社動かして、仕事するの」 と言い切ったミカコさんの声。
出逢ってくれてありがとうございました。
また、逢いに行きます。
私は記者でもルポライターでもないけれど、また、いろいろな話を聴かせてください。
きっと。
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