素晴らしい楽曲♪ [2009年09月03日(木)]
左上にUPしました。

ぜひ聴いてみてね・・・癒されますよ〰



私の愛している人。(雅歌1:7)

多くの人々はイエスについて、主を愛することを願うとか、主を愛していると信じているとか言うだけで、貧弱な、浅薄な経験に満足している。

このような死活にかかわる重要な問題については、たましいが全き確信を得るまで休んではならない。

私たちは、イエスと私たちの愛の関係において皮相な望み、あるいは空虚な信頼で満足してはならない。

昔の聖徒たちは、「しかし」「もしも」「……であることを望む」あるいは、「であることを信じる」などという一般的な表現は用いなかった。

彼らは無条件に、明白に語った。

パウロは「私は、自分の信じて来た方をよく知っており」と言い、ヨブは「私は知っている。私を贖う方は生きておられ」と言った。

イエスに対するあなたの愛の明確な知識を得よ。

イエスに対する関心を現実的なものとして語ることができるまで満足するな。

あなたが聖霊の証しを受け、信仰によって聖霊の印をたましいのうちに受けた時、あなたはそれを確かなものとすることができる。

キリストに対する真実の愛は、常に聖霊の働きによるものであり、

聖霊によって心にもたらされなければならないものである。

聖霊はその動因であられる。

しかし、私たちがイエスを愛する論理的な理由は、

イエスご自身のうちにある。

なぜ私たちはイエスを愛するのか。

イエスがまず私たちを愛され、

「私たちのためにご自身をささげられた」からである。

私たちはイエスの死によっていのちを得、イエスの血によって平和を得た。

イエスは富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた。

なぜ私たちはイエスを愛するのか。

主のご人格が卓越しておられるからである。

私たちはイエスの美によって満たされ、

イエスの魅力をたたえ、

イエスの無限の完全を意識する。

イエスの偉大性、善良、麗しさは、一つのきらびやかな光線となって結合し、

たましいをとらえ、

ついには「あの方のすべてがいとしい」と叫ぶに至らせる。

この愛は絹よりも柔らかい鎖で心を縛るが、

それは金剛石よりも堅固である。このような愛は祝されよ。

『朝ごとに』09/03から引用



posted at 09:06 | この記事のURL
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