DHCブログのブロガーの皆様
本当にご無沙汰しております。
―こんなヤツ、ここにいたの?
と、言われてしまいそうですが、めぐみです。
今日、懐かしい古巣ともいえるここに来たのも、実はずっと以前、このブログで
書いたことのある次女のその後について、少しお話ししたいことがあったからです。
3歳の時、広汎性発達障害と診断された次女ですが、
言葉の教室に通いながら小学校の通常学級に進み、
三年生に進む前の知能テストで、8歳どころか9歳の知能指数があると判り、
めでたく卒業となりました。
この後、小学校、中学校と無事に過ごし、
この度、第一志望の県立高校に無事合格しました。
昨日、娘が療育施設の主治医をして下さった女性医師に御礼の手紙を書きました。
無事、志望校に合格し、この春から進学する報告も兼ねています。
―私はこれまで、たくさんの人に支えられてここまできました。
先生もそのたくさんの人の中の一人です。
これまで頑張ってきたことを忘れないように、高校では自分の夢を叶えるために
更に頑張りたいと思っています。
また、何かありましたら、よろしくお願いします。
このようなことが末尾に書かれていました。
涙が出ました。
娘が診断を受けたときから、
DHCのブログでは「みかん箱の机」というタイトルで
成長記録のようなものを時々、書いてきました。
タイトルは、小学一年生になった幼い娘が私の作ったみかん箱を利用した
机で勉強していたところから取りました。
―何で、こんな簡単な計算もできないの?
まだ小さい子をきつく叱ってしまったこともあります。
どうしても問題が解けなくて、母と娘で抱き合って泣いたこともありました。
小学校一年の子が1日に数時間勉強して、学校の授業についていっていました。
ところが、小学校二年の終わりくらいから、段々と自宅での勉強時間が
短くても授業についてゆけるようになっていきました。
四年になった時、妹が入学してきたので、私の手も離れましたが、
このときには娘はもう何もかも一人できるようになっていました。
今、娘が義務教育を終え、高校に進むに当たり、感無量です。
小さい娘の手を引いて、言葉の教室に通い、
午後から保育園に連れていったこと。
皆はお昼寝をしていたので、冷めた一人分の給食を急いで食べさせ、
パジャマに着替えさせ、お昼寝の教室に送り込んだこと。
娘自身は覚えていないようですが、
私自身はつい昨日のことのように思い出されてなりません。
言葉の教室の先生に勧められ、三歳から通った公文塾の先生には、高校合格の知らせを娘
から聞いてすぐ、メールで知らせました。
先生は涙声で
―良かった、良かった。
と、自分の娘のことのように歓んで下さいました。
何より、娘が
―自分はたくさんの人に支えられて、ここまで来た。
そういう気持ちを持てる子どもに育ってくれたことを嬉しく思います。
長いようで、あったという間の15年でした。
療育施設も経過観察に通っていましたが、ここで正式に通院を終えました。
DHCブログを始めた頃が丁度、この子が小学校に入学した頃で、いちばん大変な時期だっ
たと思います。
「みかん箱の机」もこれで本当に完結です。
これからは今までよりは少し離れた場所から娘を見守ってゆきたいと思います。
たくさんの涙を流して、たくさんの努力をして、娘はここまで歩いてきました。
彼女は将来、語学系の仕事につきたいそうで、そのためにも頑張って大学にいきたと行っ
ています。
この子のめざましい成長に、子どもの可能性は無限大だと母親の私は教えられました。
最初から障がいがある子と諦めていたら、今日の娘はいなかったと思います。
今更、ブログでお話しするようなことではないかもしれませんが、いちばん大変な時期にこ
こでお話しして乗り越えていったこと、どうしても忘れられず、完結編を書こうと戻ってきまし
た。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
どうか皆様にとっても素敵な春になりますように。