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カテゴリアーカイブ
お引っ越し [2012年04月03日(火)]
・・・を、します。

いやいや、住まいじゃなくて、ブログね(笑)


こっちに移ります。↓↓↓

http://ameblo.jp/nekohimesakura/


このDHCブログに不満があったわけじゃないのよ〜!



ちょっとね、あるひとのアドバイスのもと、

自分の書き癖みたいなものを見直してみようかと思って、

それなら思いきって場所ごと変えてしまおう、と



ブログタイトルは同じく 『猫姫DIARY』 のままなので、

皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。


では、 See You Again


DHCブログ、使いやすくて大好きでした。

お世話になりました。


さんきゅ
posted at 00:34 | この記事のURL
自画自賛な夜☆ [2012年03月26日(月)]
今日の入浴剤は、炭酸ソーダがベースになった発泡タイプ


フツフツシュワシュワ…… と、何とも優しくキレイな音がずっとしていて、あったまるにゃ〜


あったまるゴハンを食べた後だから、尚更かな。


冷蔵庫&冷凍庫内に中途半端に残ってたいろんな野菜を一掃しちゃう、名付けて、



寝た子を起こすクリームシチュー』 www



じゃがいも、ほうれん草、はくさい、とうもろこし、舞茸、にんじん、ブロッコリー…… そりゃもう、見た目も味も賑やかで美味でありんす



……が、ルウを入れるために蓋をあけた時、あれれっ? と首をひねったんだわ

なんか、くるんとねじれた薄茶色の、妙なヤツ。

こんなん入れたっけか?



とつまみ上げてまじまじと見つめること数秒、あー、生協の無着色ウインナーだったわ、と(笑)


鶏肉を使うことが多いんだけども、たまたま切らしてたから、代用したんだった。


♪ あばうとに行きます〜 ♪ だわね、ホントに(^^;


ウインナーは加工前のお肉より格段にデリケートなので、圧力鍋には不向きでございますのね。

はじけてねじれて、変身しちゃう

はい、今さら、ひとつ学びました(笑)




いろんなものに名前をつけるのが好きなので(パソコンとか、植物とか、バッグとか)、料理も勝手気ままな名前がついてたりします。


代役だらけのオケピのお好み焼き


とか。


これは先週かな、作ったんだけども、家にたくさんある里芋をすりおろしとみじん切りにして、長芋の代役で使い、まるまる半分のまま居座っている白菜を千切り(ちょっと太め)にして、もやしの代役に立て、ねぎだけは代役がいないから買ってきて…… とね(笑)


……うん。


ねぎみたいなひとになりたいもんだよね〜……しみじみ……(爆笑)


これも、お客さん呼んで振る舞いたいくらい美味しかったっ




泥棒の無精ひげハンバーグ



というのは、ひじきがたくさん入ってるの


見た目は半端なく薄汚い色で笑っちゃうけど、生地に下味をつけておいてシンプルにお醤油でたべるのが美味しいんだわ、これは


また作ろ!



あ〜、暑い


髪洗って、出よう

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卒業 [2012年03月21日(水)]
「だって、5年だよ!?」


時ならぬ大きな声がして、思わず見てしまった。


「なんで寂しくないの、ってか、寂しくないってことが寂しいの、あたしは。だっておかしくない? 5年だよ? あたしさ、心、ないの!?」



涙を堪えているような顔で、掠れ声で、自分を責めるように吐き捨てた美人な彼女は22、3歳だろうか。



寂しくないことが寂しいの。



うん。


すごく、わかるよ。


少し前までの自分を見たような気がしたもの。




でも、そういうことじゃないと思うんだよ、お嬢さん。


5年も付き合ったのに別れが寂しくないなんておかしい、心が無い……そんなことないよ。


別れて寂しくないだけの関係になるまでに5年必要だった。


それだけだよ。




年明けから先月までのあいだに、心の中でピリオドをうった人間関係がふたつある。


どちらも、まあどうでもいいけどさ、みたいな適当な連中ではなくて、それなりに付き合いも長い、私にとっては大切なひとたちだった。


距離をおくのが寂しいなら、歩み寄る方法はいくつもあるのだろうが、私はそれをしようと思っていない。


寂しくないからだ。


これがベストだと、普通に思うからだ。


大喧嘩で決裂したわけでも、ひどい裏切りをされたわけでも、絶交宣言を叩きつけたわけでもないので、さしあたり、そのひとたちが私のことをどう思っているのかもわからないけれど、それすら気にならない。



単純に、そういうことじゃないのかな、と思う。


喧嘩しようが衝突しようが、根っこの部分で 「好き」 = 愛や友情や敬意みたいなもの が互いにあるなら、どちらからともなく歩み寄るだろうし、なければしない。


それだけのことよと思いはしても、長い付き合いを絶つにはやっぱり心も無傷じゃいられなかったりで、いろいろ考えてしまう。


もっと何かできなかったか、と。


もっとわかってあげられなかったか、と。



親子だってそうだ。


心がすれ違ったまま、母を見送ってもうすぐ5年、悲しいとも恋しいともなつかしいとも思えないままの5年。


28年も一緒に暮らしたのに。


母にとって、親きょうだいよりも夫よりも親友よりも、誰よりもダントツに長く一緒にいた相手が私なのに。


歩み寄れなかった。


わかってあげられなかった。


傷付けたいわけもないのに傷付け合うばかりで。


でも、真剣だった。


真剣に相手が大切だったからこそ、ゆずれない本音をぶつけ合おうとして、思いきり傷付いた。


本気で大切じゃなきゃ、あんなこと言いやしなかった。


だから、母や、友人たちとのあいだに起きた あんなこと や こんなこと の何一つも、後悔はしていない。


もしも時間を巻き戻せたとしても、相手が「当たらず触らずの、まあどうでもいい相手」に成り下がっていない限り、結果は同じなんだろうから、さ。


たまにはチカラ抜かないと長生きできないよ、なんて言われたりもするけど、でも、息きらしながら長生きしたいなと思うんだわ(笑)


やっと手放すことができて、自由になれたんだもの。


掛け値なしの真剣勝負で付き合ってきたからこそ、別れて寂しさのかけらもないのだ。


生きてる者は、生きてるんだものね。


何年間の縁があろうがなかろうが、みんなみんな、幸せになれ。


この世も、あの世も。


駅のホームで泣きそうだったお嬢さんも、何も言えずに寄り添うしかできなかった友達も。


心は、ちゃんと在るよ。


そんなに自分を責めるほど、5年間、よく頑張りました。


よく、愛しました。


あちこちの学校の卒業シーズン。


アナタも卒業おめでとう、お嬢さん。


ファイト!


もっともっと、幸せにおなりよ
posted at 01:13 | この記事のURL
すっぴん [2012年03月16日(金)]
いくら歌うことが好きだっていっても、おひとりさまカラオケ1時間を毎日かかさず通っちゃった週なんて、初めてだわさ〜


先週の火曜日から、ずっと。

あ、平日限定ね。土日はワカモノで大混雑するから(^^;



残業なしで会社を出ると、最寄り駅に着くのが19時ちょい前、昼間料金でいけるのが20時までだから、1時間なの(笑)


ホントは軽く2、3時間いきたいところだけど、お腹もすくし、ちびたち待ってるし



手探りじたばた、悪戦苦闘してきた 「地声」 らしきものがようやく掴めてきた。


そうすると、高いキーがひょろつかないでまっすぐ出るようになり、低いキーも自然な太さを持って出るようになった。


空と君のあいだに、幸福論、ばりほれとんぜ、ローリング(新しいほうのアレンジね)、荒野より、テキーラを飲み干して  etc、大好きだけれどなかなか歌えなかった低めのキーの歌が、気持ちよく歌えるようになった。


みゆきさんほどドスのきいたガナリはもちろん真似できるもんじゃないけど(笑)、あぁ、あれは才能やテクニックだけじゃなくてソウルなんだねと(当たり前!)、あらためて実感するだけでも嬉しい。




みゆきさんとイメージ違いすぎるのは、仕方ない。

彼女と私は他人だから。



母の声に似すぎている瞬間が多々あるのは、仕方ない。

彼女と私は親子だから。



♪ シカタナイ シカタナイ そんな言葉を
  覚えるために生まれてきたの

  少しだけ 少しだけ 私のことを
  愛せるひともいると思いたい ♪


    ――― 中島みゆき 『はじめまして






シカタナイ こともあるさね。

前向きな意味で、だよ。



ひとりで歌う時は、全部録音している。


帰宅して、ゴハンやら片付けやらネルのブラッシングやら、いろいろしながら聴く。


地声がわからなかった間、私が 「歌ったつもりの声」 と、録音したものから 「聴こえる声」 のあいだには、自分でも信じられないくらいの落差があった。


実際の声は、つもりの声より、とんでもなく高く聴こえていた。


音痴じゃないから、キーはちゃんと合っているはずなのに、低音のはずなのに、声そのものは高く上ずったように聴こえる。


小さい女の子が、お父さんやお兄ちゃんの声真似をして遊んでいるみたいに。


それが、最初のレッスンのときに師匠に言われた、



「心とつながってない、説得力のない、聞いていて落ち着かない、中途半端なファルセット」



という代物だったのだろう。



それは、卒業できたっぽい。


中途半端にフワァ〜…とキレイっぽく聴こえる気がする声 じゃなく、ちゃんと地に足のついた、正直でヘタクソな声になってる。




私の声だ。

私だけの声の苗木だ。

コンプレックスが浮き彫りになった、すっぴんの声だ。




やっと、そう思えたから、次のレッスンの申し込みをした。


月末、楽しみ。


今度はどんな厳しいダメ出しをしてくれますか、師匠。

表や裏や、あちこち忙しいプロミュージシャンのあなたに、こんな遠慮なく甘えてわずらわせて、ゴメンね。

ありがとう。

無駄には、しません。



私は、苦手なものがいろいろあるけど、何がいちばんっていえば、歳の近い(プラスマイナス1歳)女性。


気後れしちゃう。

余計な昔を思い出しちゃう。

だから、化粧が厚くなる。

……師匠の歳、どんぴしゃ(笑)



でも、今度は、化粧しないで逢いに行くから。


コンプレックスの塊の素顔、さらして行くから。

やるなら思いきって、ね。


電車の中でも、マスクなんかで隠したりしないんだっ



……こうやって宣言して証拠を残しとかないと、ためらいそうだからさ(笑)


さて、長湯でデトックスできた気がするし、シャンプーにかかろう。


先日の気持ちよさにやみつきになって、今宵もバスタブの中から更新、でした


Good Night
posted at 00:18 | この記事のURL
謎のブツ [2012年03月14日(水)]
今朝、起き抜けから右目の調子がおかしくて。


ひどく痛いとか痒いとかじゃないけれど、なんとなく眼球が腫れぼったいような、熱をもっているような、まばたきするたびにもったりした痛みが出るような・・・??


アカンベーをして鏡を見てみると、粘膜のところにごく小さなブツがひとつ、ないことはないけれど、赤くもなく膿んでいる様子もなくおとなしい無色だし、そもそもこんな針の先程度のものはずっとあったような気もするし、まあそのうち消えるだろうと普通に出勤した。




・・・消えないんだわね(笑)




右目の眼球だけが3割増しくらいにふくらんでいるんじゃないか、みたいなホラーチックな違和感は増すばかり、右目だけ涙目になるし、朝より痛痒くもなってくるし・・・ で、1時間早退させてもらって自宅の最寄り駅前の眼科に行った。




痛みと違和感の原因は、やっぱり、あのおとなしそうなちっぽけなブツ。



とても安心感のある、優しいおじさん先生に、うまくつっついて中身を出してもらい、消毒用目薬をもらったおかげでラクになった。



領収書の項目名には、



「手術: マイボーム腺梗塞摘出術」



なんて、何ごとかと思うような名称が書かれているけれど、何のことはない、なぜだか出るところ間違えちゃった吹き出物のイトコ、ぐらいの代物だった




いやはやまったく、ブツめ。



びっくりするじゃないの(笑)





家計簿書いてたら、ンワーンワーンワー! って携帯が叫ぶし


地震の揺れそのものよりも、こっちの音が心臓に悪いよッ


警報だから、綺麗な音じゃなくてもいいけど、もうちょっと何とかならんかね・・・





縦に揺れて横に揺れて、わりと大きくて、気味悪かったけど。



揺れがおさまっても、まだしばらく自分が揺れてる感じするもんね、電車に乗っている時みたいに。





今夜は、揺れませんように。


明日も、ずっと、揺れませんように。




まだ、目には違和感や鈍痛があるので、早めに寝ます。



Good Night

posted at 23:36 | この記事のURL
3,153万6,000秒 [2012年03月11日(日)]
1年、経った。

何かちょっと見聞きするたびに無力を痛感するしかなかった1年が過ぎた。


長かった?

早かった?


目覚めてテレビをつけたら、案の定、震災の特番をやっていて、阪神大震災の復興奮闘記みたいな話を嬉々として早口で喋りまくっているひとがいて、何となく快くはなくてすぐに消した。


たしかにあの大揺れも怖かったけれど、私は家も家族も友人知人も失わずにすんだから、今は正直なところ昔話のよう。


それぞれの記憶も、悲しみも、奮闘も、本当にそれぞれなんだけどさ。


でも、ヒーローインタビューじゃないんだから。

阪神大震災では、原発は吹っ飛ばなかったし、放射能は溢れ出なかったんだしさ。


あなたの奮闘記は、教科書にはならないよ……


…………。


あの日突然、普通 を奪われてしまったひとたちのことを心の片隅において、普通に過ごそうと思った。

洗濯をして、掃除をして、買い出しに行って、欲しかった本も買って、宅急便をひとつ作って出して、紅茶を飲んで、ネルと美羽を抱いた。


お風呂から出たら、キーボードも弾く。
普通 の日課だから。



気にかける ということと、気に病む ということ。


日々思い出さない ということと、忘れっぱなし ということ。


それらは対極に離れているわけじゃなく、ほんの隣同士なんじゃないかと思う。


隣同士のこっち側に、心をおいていたいと思う。

元気にワガママな、何不自由ない生活をしている私は、さ。



首都を直撃するであろう大地震も、3〜4年以内には起こるという。


誰がどこから導き出した数字を信じるべきか、素人はわからないけれど、遅かれ早かれ……もとい、わりと早いうちに、たぶん来るのだろう。


せめてその時、今回の被災地から、仮設住宅というものが1つもなくなっていて、全員がちゃんとした住まいで、できる限り落ちついた生活を営めるふうであってほしい。

3年以内 は、もしかしたら、明日の朝かもしれないんだよ?


今、関東がそんなことになったら、東北への支援が滞るだけでなく、あちこちでパニックや暴動や混乱が起きて、収拾つかなくなりそう。



リアルな予想が、外れますように。


せめてこの国のすべての原発が完全停止して、東北をはじめとする今回の被災地がちゃんと復興するまでは、神様、待って。


今日はこのまま、テレビは点けない。



どうか明日は、今日よりほんの一歩、いや半歩でも、いい日になりますように。


そんな明日がずっと続きますように。


思いつく限りの備えだけはして、祈る、のみ。


切実な祈りを込めて、玄関で、いちばんのお気に入りのガラスの花器でアイビーを育て始めた。


前に買ったパキラが早々に弱って枯れちゃったから(^^;


矛盾してるようだけど、それが私の祈り方です。

posted at 22:56 | この記事のURL
バスルームから愛をこめて(笑) [2012年03月09日(金)]
ただいま、お風呂の中から更新中



はぁ…… 極楽だぁねぇ〜……


普段、湯舟の中ではもっぱら読書をしているんだけれど (最近は室井滋サンのエッセイにハマってた)、 今日は気分を変えまして


お風呂から出たら、アイロンかけよ。

ペディキュアも塗り直そ。

そうだ、友人にあげる楽譜も書こう。


加藤登紀子さんの 『ひとり寝の子守唄』 をギターで弾き語りしたいらしいけど、♯やら♭やらがたくさんついていない、Cコードがベースになったカンタンな楽譜がなかなか見つからなくてさ…… とこの間言っていたので、次に (たぶん明後日) 会うときに渡そうと。



歌は、いいね。

音楽は、いいね。



あぁ、あの歌、自分も好きだよ、と微笑いかわすだけで、見ず知らずだった心もふわっと繋がっちゃったりする。

男でも、女でも、歳がいくつでも、仲良きことは美しき哉、だ



なじみの店にマイギターをおかせてもらって、昔とった杵柄で弾き語りをしているというから、もうちょっと、いやいや、もう〜……ちょっと、レベルというかテクニックというか、うやむやウヤムヤ……(爆笑)


彼の弾き語りは、わが父上といい勝負でありまする


父は、歌は好きでも譜面だの音階だのというものがまるでわからないひとなので、譜面には、五線と歌詞のあいだの狭いスペースに、母の几帳面な字でルビがふってあった。


たとえば、♪ 知床の岬に はまなすの咲く頃… ♪ なら、


51  35  11615  3432  5  3231…


といった感じ(笑)


数字だけでは長さを表せないからして、当然ながら父のギターはすこぶるマイペースで、気の向いたタイミングで ♪ジャジャジャン♪ とご機嫌な合いの手が入ったりもするので、合わせて歌うのはなかなか骨が折れた。


その友人も、音痴でこそないものの、リズムはかなりの お気に召すまま〜 で、自分の伴奏と歌声が合わないという甚だ不思議な事実に真剣に首をひねっていたりするので、私はホント、お腹がよじれそう(笑)


ピアノやらハンドベルやら、楽器に親しんで、好きなんだぁ だけではない理論も少しはかじってて、良かった。


素人には素人だけの、背負うものがない軽やかな楽しさがあり。



今年の私の誕生日には、大好きなバーで、美味しいお酒を酌み交わしながら 『Happy Birthday』 を弾き語りしてくれるそうだ


クリスマスの 『きよしこの夜』 と、友達のお祝いの時の 『乾杯』 も、もう約束済みなんだそうだ(笑)


楽しみだね


いいトシのおとなたち、遊びをせんとや


年甲斐のない、バランスとれてない、素直なひとが好きだ。


歌は、音楽は、そういう他愛ない縁を、それこそ鼻歌まじりにひょいっとつないでくれる。


うん。


いいねっ
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Energy [2012年03月06日(火)]
今日は、また真冬日が戻ってきたという。


冷たい雨の降りしきる、薄暗い月曜日の朝なんて、泣きたいほど憂鬱なはずなのに、私の心の中はすっきりと穏やかに晴れ


今日だけのことじゃない。


何か特別な楽しみごとがあるわけでもないんだけれど、最近、ずっとそう。


ココロが、元気。




5倍のエネルギー なんてモノがあるからさっ




『ひとがひとに求めること』


↑ 1月の末、とことんまっすぐで厳しくてあたたかい師匠の言葉にノックアウトされたあの日、もう1つ不思議なことを言われていて。





「今までの5倍くらいのエネルギーで生きてみることだね」





5倍・・・ですか!? と、あっけにとられて訊き返した。




私、充分エネルギッシュに生きてるつもりなんだけど、と。


かなり親しかったはずの友人にさえ「エネルギーが強すぎて疲れる」と言われてしまうほどに。


適当に力を抜く方法がわからないから、いつも息を切らしているのが当たり前で、我慢や遠慮をしつづけながら生きているというつもりもないし。




と言ったら、




「エネルギッシュったって、それ、マイナスのエネルギーも強いでしょうが。

自分のちっぽけな世界の中で、いろいろ怖がって拒否してることがいっぱいあるでしょ?

そういうの全部、やめてみれば。

エネルギーって、バネだから。マイナスの方を向いてるのを全部プラスに向ければ、余裕で5倍くらいにはなるよ」




私は、わかったとは言わなかった。


途方にくれて、イメージが湧かない・・・とつぶやいた。




「だぁから、そういうのがワガママだっつーの」




にこりともせずに一喝されて、口だけは達者なはずの私が、返す言葉のひとつも出なかった。




方法がわからなくても、真剣に考えて、受け止めたくて、理解したくて、応えたくて・・・、とりあえず、今まで何となく避けてきたこと、経験がないこと、不慣れなこと、苦手意識のあることetc をやってみよう、と。



どっちにしようかと迷った時、今までなら選ばなかった方をあえて手に取ってみよう、と。




これがね〜、意外や意外、面白いんだ!




途方もなく、自由。


途方もなく、愉快。


だって、ネタに困らないんだもの。




苦手なこと、不安なこと、避けてきたもの、嫌いだと思っていたもの、怖がっていたもの、許せなかったこと、何となく気後れしていたこと、気恥ずかしいような気がしていたこと、気にしながらも見ないふりをしていたこと・・・、そんなもんアータ、いくらでも出るわ出るわ(笑)




・・・意外と、平気じゃん?


むしろ、好きになれそうじゃん?


いいじゃん。


思い出したとこから、再スタートで。





そんな他愛もない小さなかけらの積み重ねが、5倍どころじゃない、揺るぎないエネルギーになっている。




疲れなくなった。


気鬱にならなくなった。


ひとの言動に苛立ったり腹を立てることがめっきり減った。





言霊って、あるんだよね、ホントに。



ある日突然、魔法使いが現れて、今日からアンタに5倍のエネルギーをあげるッ! と言ったわけじゃないのにね(笑)



言われた時にはわからなかった言葉、体と心を動かしているうちに、いつのまにかちゃんと私に寄り添っている。



5倍のエネルギー。



無駄にはしない。



5倍のエネルギーがあるなら、5倍愛せるひとになりたい。



師匠。



あなたみたいに。



いつか、ね。



私も 与えるひと になる。



ありがと、師匠。



扉を開けることは難しくないッ、と叱るように言い捨てるふりで、鍵はちゃんと私のポケットに落としておいてくれたんだね(笑)



かなわないな。





私が強く明るく見えるとすれば、それはたえまない不安と怯えの裏返しにすぎないことを、私自身が誰よりも知っているから。




この、あたたかくしなやかなエネルギーを、大切に育てていこう。


惜しみなく、過信せず、きちんと前向いて回してゆこう。


それでも弱虫だからさ、寂しがりだからさ、バランス悪いからさ、あちこちでけっつまづいて転ぶかもだけど。


だから、ずっと付き合っていてね、師匠。


一生かかったって返しきれやしないステキなものを、私にくれたんだから。





降参からのスタートって、こんなに身軽なんだ。

posted at 00:12 | この記事のURL
顔のない街の中で [2012年02月19日(日)]
福島から帰ってきた。



南相馬市民文化会館【ゆめはっと】 にて、


『南相馬ダイアログフェスティバル 〜みんなで未来への対話をしよう〜』

というイベントが昨日・今日と開催されていてね




昨日の10時前に出発して15時前に現地に着き、今朝は7時に現地を発って正午頃に帰宅、というまる1日もない滞在で、もっと話を聴きたいひとが大勢いたので、とても後ろ髪ひかれる思い。



17:30〜20:00の、


「柳美里さんと一緒に物語を作るワークショップ」


がいちばんの目的だったので、整理券を確保するために早めに着いた。




この企画が告知された時から、行きたいとは思っていながら、同じ日にかぶる可能性のある予定があってなかなか確定しなかったので、よし行こう、と決められたのが2日前の夜という慌しさ。



ワークショップの終了が20時予定、とはいってもこういうのは予定時間がおす可能性があるし(事実、昨日も1時間おしてしまった)、時節と場所柄、交通ルートや宿泊施設が平常通りじゃない状態だから、行きはともかく帰りをどうすればいいものかと一瞬悩んだけれど、まあいいや、電車の便が悪くてもタクシーは走っているのだし、ゆったりしたホテルはなくてもラブホテルの類で仮眠くらいならできよう、お財布さえ持っていればどうにでもなる、と、行き当たりばったりで出かけてしまった。



こんなの、人生初。


母が見たら卒倒するに違いない!?(笑)





早めに着いたので、メインロビーで子供たちの手書きメッセージや掲示物をひととおり見てから、美里さんの楽屋へお邪魔して何やかやと話したり、駅前のコンビニまで散歩に出たりした。




震災以降、南相馬の町は、私が想像していた以上に過疎化が進んでいるという。


もとは活気のある商店街だったのであろう、ホールから駅までの一本道は、○○電器、××ヘアサロン、生活雑貨の△△、などと書かれたシャッターが下りたままの店がほとんどだった。


駅も、道も、静かだ。


街並みが、眸を伏せているように思えた。


目をとじて眠っているわけでも、諦めているわけでもなく、かといってマスコミが声高らかに叫ぶような、頑張ろう東北! とか、復興のために力を合わせて! とかいう空元気もない。


自分が今いる場所の足もとをしっかり見つめ、傍にいるひとの手を黙って握る、ような。


今、日本中のあちこちにあふれ返る、頑張ろう! という言葉の難しさを思う。




「いつになったら 外であそべますか」(小2・女子)


「いつか みんなでうちにかえることはできますか」(小3・男子)


「土とか葉っぱとか 自然にさわってもいいようになりますか」(小4・女子)


「放射能は いつなくなりますか」(小5・男子)


「私は将来 赤ちゃんを生めますか」(中2・女子)





ホールのロビーに掲示された、桜の樹の形をした大きいメッセージボード 『今いちばん知りたいこと』 には、小中学校の子供たちの言葉が書かれた花びらがひしめいていた。



子供ばかりではない。




「愛犬を外の庭で飼っていてもいいのか心配です」


「あれ食べちゃダメ これしちゃダメ と言われっぱなしで生活している子供の気持ち・・・。」





大人も悩む。


誰も明確で安心できる答えを出せないことに悩み続け、考え続け、答えが出ないままもうすぐ1年がたつ。




悩むくらいなら引越せばいいじゃないか、本気で子供の安全を考えるなら、お金だの仕事だの、そんなのどうにだってなるでしょう? みたいなことを、親しかったはずの親族や友人から言われることも珍しくはないという。



たとえば震災の後、一時的にせよ引越し(避難)をしたひと、しなかったひと、したくてもできなかったひと、できてもしなかったひと、家族一緒に動いたひと、ばらばらになったひと、避難先から福島に戻ったひと、戻らないままのひと・・・・・・



そういう分け方をした時に同じひとくくりに入るとしても、そこに至った経緯は、想像も及ばないほどばらばらにかけ離れていて、まして誰の、どの選択が正しいわけでも間違っているわけでもない。



昨日のワークショップの参加者の中でも、避難しなかった理由はさまざまだ。



たとえば寝たきりで動かせない家族がいるとか、家計や仕事の問題というのは、わかりやすいネックとしてマスコミでもわりあい取り上げられるけれど、そんなことばかりじゃなく。



同じアパートの近所に、足の不自由なひとが住んでいるから、そのひとを置き去りにして自分だけ逃げるなんてできなくて、と言った年配の女性がいた。


あるいは、家長であるお父さんの意見が絶対で、若い世代は避難したいと考えていてもそんなことは口に出せなかった、と言った男性もいた。


一旦は家族で避難したものの、独りで帰宅した若い女性もいた。
自分が生まれ育った街で、家で、自分の部屋で、とにかく眠りたかったのだと。


親戚や友人を頼って身を寄せたものの、やっぱり長くは居られなくて・・・ と言ったひともいた。





大勢のひとが亡くなったことを知って、お客様から預っている喪服をお返ししなきゃいけないと、避難先から戻ったクリーニング屋さんもいた。


・・・でも実際は、誰ひとり喪服を引取りになど来なかったそうだ。


喪服を着てきちんとお葬式などする余裕は誰にも、どこにもなかったからだ。




マスコミでは、日本人はどんな時でも思いやりを忘れず譲り合う礼儀正しいひとびとで、海外からも称賛され・・・ というイメージばかりを流し続けたけれど、あの当時は、避難するためのガソリンを求めて殴り合いの暴動が起き、女性の胸倉をつかんだり子供を突き飛ばしたりするひとも珍しくはなく、あるスタンドでは今ならいくら高くても売れるとばかりに倍以上の高値に跳ね上がり・・・ ということが実際にあった。



そういうことは報道されない。



戦争経験者であるお年寄りの、


「今の、この状態は戦時中や戦後の混乱よりひどいよ」


という言葉も。



子育て中のお母さんたちの、


「子供をしつけることも叱ることもできなくなった。我慢させて、不安にさせて、健康さえおびやかして、かわいそうで、申し訳なくて、つい言いなりになってしまう・・・」


という声も。



子供の肥満や糖尿病、学校でのいじめなどが増えているという現実も。



報道はされないけれど、今ここにあること。





見ようとしなければ見えないものが多すぎる。


聴こうとしなければ聴こえない、知ろうとしつづけなければ知らないままになることが、あまりにも多すぎる。


こんなちっぽけな国の中で、知らないままにしていてはいけないことが多すぎる。




知らなきゃ始まらない。


知るためには、見て、聴いて、感じなきゃ始まらない。


1年もたってからだけれど、今さら とは思いたくない。


今さら じゃないものね。


時間はたったけれど、何ひとつ、解決も復興もできていないんだから。




「被災地では・・・」「被災者の現状は・・・」「復興をめざした活動が次々と・・・」



そんな十把ひとからげの言葉でまとめて、重たい話はもう飽きたよとばかりに耳ざわりのいいエピソードだけ並べて見せながら、ニッポンは元気だ、さあ、風評被害対策だ、食べて応援、それ、オリンピック誘致だ!



それらがすべて悪いとは言わないが、それらより先にやることはもっとあるはず、よね。





ワークショップの終了後、美里さんやスタッフの皆さんに交じって飲みに行った。


タクシーをあらかじめ呼んでおかないと都会みたいに夜遅くまでは営業していないよ と言われたので、0時に店の前に来てくれと電話予約しておき、ちょうどそのくらいの時間に解散となった。




タクシーが来たらさっと挨拶して消えるつもりだったのが、


「さくらさん、じゃあまた明日ね!」


と言われ、


「いや、明日も参加したかったんですけど、帰らなきゃならなくて」


と答えてしまったものだから、会話の流れで宿の手配がないことがばれてしまい、


「えーっ、宿とってないの!? ダメだよそんなの、心配だから!」


と数人の女性スタッフの皆さんがあちこちに電話連絡してくれて、あれよあれよという間に、ワークショップ参加者のひとりだったクリーニング屋のTさんのお宅に泊めていただくことになった。



ありがとうゴザイマス・・・m_ _m


Tさんの家に着くと、当初からお泊まりの予定だった男性スタッフ5人が、みんなのお母さん的なTさんとともに食卓を囲んでいるところで(笑)



さっきまで一緒に呑んでいて、さようならと別れた直後のオマヌケな再会に、申し訳なくもあたたかくて、ほっとして、コンビニおでんをつつきながらワインを飲んで、またいろいろな話を聴いた。



柳美里さんの友達なんだよね、柳さんってどんなひと? どこで知り合ったの? などとも訊かれた。


どんなひと、ってね、一言で説明するの難しいよね。


私も、どんなひと、って一言で説明なんかされたくないしね(笑)




おっちょこちょいで、生真面目で、不器用で、優しいひとだ と答えたけれど、そんな言葉じゃ到底足りない。


大好き。




いわゆる一目惚れの多い私が、唯一そうでなかったのが美里さん。


学生時代、中毒のように読みふけってはいたけれど、友人たちに、好きな作家なのか、面白いのか、と訊かれると否定していたから。


面白いってわけじゃないし、やたら疲れるし、と言いながら口をへの字にして睨むように読みふける私の姿が怖かったと、後になってから結構言われた。



いつのまにか、気づいたら途方もなく好きだったんだよなぁ・・・。

かけがえのない、大切なオンニ。

信頼もしている。感謝もしている。

「他人の痛みを痛むことはできない」という、そのどうしようもない痛みの中にまっすぐ立って目を逸らさない真摯さを尊敬もしている。

でも、つまるところ、単純に大好きで、慕わずにいられないだけ。



美里さんと出逢っていなかったら、開いてはいなかったであろう扉 というのがかなりある。


開くどころか、存在に気づきもしなかった扉。


きっかけ、動機、物事のはじまり。


愛読者のひとりを経てサイトスタッフに加わり、友達と呼ばれるようになっても、美里さんを大好きなのはなぜか、なんて理由は的確に言いきれない。


でも、感謝している理由は言える。


いくつもの動機を、私に与えてくれたことだ。




「震災と原発の被災地」 と決してイコールではない南相馬という場所と、そこに生きるひとたちと私を引き合わせてくれて、ありがとうございました、美里さん。



行き当たりばったりの結果、初対面なのにいきなり泊めていただいて、ありがとうございました、Tさん。


“おふかし” のおむすび、美味しかったです。



あ、おふかしというのは、お赤飯の色なしバージョンみたいなもので、餅米に白いんげんをまぜて炊いて、もとい、ふかして作るもの、なんですって。





美味しいものをいただいて、強く優しい心持ちのひとたちと関わり合って、美しい雪景色を見て・・・こんな短い滞在でも、今ここが、


「放射能に汚染された街」


と避けて通りたいようなイメージで見られている事実があると思うと、胸が詰まる。


たしかに、放射線量は東京の5倍近い数値がある。




起きてしまったことは変えられない。


怒っても、嘆いても、悔やんでも、責めても、詫びても、何をしても変えられない。


それならせめて、ちゃんと知ろうとすることから始めたい、と思う。


一般のひとよりそういう技術や方法や知識を多くもっているマスコミや政治の関係者、あなたたちこそ誰よりも頑張って、生の声をたくさんたくさん聴いて、ひとまとめじゃなく、美談じゃなく、わかったふりじゃなく、正直に正確に伝えて共有させてよ、と願う。





“ 見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
  失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば
  ままにならない日々の怒りを 物に当たる幼な児のように
  物も人も同じに扱ってしまう 見知らぬ人のことならば


  ならば見知れ 見知らぬ人の命を
  思い知るまで見知れ
  顔のない街の中で
  顔のない国の中で ”


     ―― 中島みゆき 『顔のない街の中で




知ったようなつもりになっているところからは、何も始まらない。


私は知らない、私にはわからない、想像も及ばない、という切ない事実をきちんと受け止めて、知ろうとすれば。



少なくとも、マスコミ報道でよく名前があがる地域を 「被災地」 「放射能汚染の地」 と決めつけて心身を遠ざけたり、その場所を離れたひとたちを神経質な臆病者だと責めたり、逆に住み続けているひとたちを頑固者だと哂ったりすることはなくなるだろう。


福島県産の野菜や果物を幼い我が子に食べさせることに、たえまない不安や迷いや罪悪感を抱くお母さんは(自宅や実家、親しいご近所さんなどが農家の場合はなおさら・・・)福島県内にもとても多い、という、誰にも正解の出せない現実がわかれば、テレビで同じ報道を見ても、スーパーで同じ産地表示を見ても、また違った感じ方ができることもあるだろう。




最近、昔よりはちょっとばかり正直者になったのか、わりと達者だったはずの言葉が心に追いつかなくなってはがゆい思いをすることが増えた。


今も、書きながら、いろんな過不足は感じているのだけれど・・・




南相馬は私にはもう、見知らぬひとが住む見知らぬ街ではなくなった、という話。


はにかんで頬を赤らめていた7歳のひぃちゃんの笑顔。


家族を守るために捨て身で闘ったユミさんの凛々しい目。


「ちゃんと会社動かして、仕事するの」 と言い切ったミカコさんの声。




出逢ってくれてありがとうございました。


また、逢いに行きます。


私は記者でもルポライターでもないけれど、また、いろいろな話を聴かせてください。


きっと。

posted at 15:41 | この記事のURL
母娘漫才 [2012年02月13日(月)]
エアコン無しではいられても、こたつ無しではいられにゃい


♪ ね〜こは こたつで 丸くなる〜 ♪ っていうけど、我が家は犬も猫も人間も、こたつLOVEですの





こたつの中からモゾモゾ・・・とネル登場


防災ずきんをかぶってるわけではありませぬ(笑)


あ、ちょっと、その恰好カワイイっ! そのままよ、ネル、そのまま・・・


なんて言いながら慌てて携帯をひっつかんで写メったので、何だかおかしな具合に光が当たりすぎて狼みたいな金色オメメになったりして、あらら






写メのシャッター音にいつまでも慣れない、怪訝そうな顔は美羽。


この時はこたつではなく、私のベッドの真ん中で寝てました




・・・んも〜、ヤメテよねママ、誰かと思ったじゃん・・・




とでも言いたげな、なんとも迷惑そうな顔(笑)



いやね、先日ケータイが故障して機種変更したんだけども、その新しいのはシャッター音のバリエーションがやたら豊富にあって、その中のひとつがとってもリアルな、





ニャ〜〜〜





うひゃひゃひゃひゃ(笑)


猫姫だもん、これは設定しとかなきゃねぇ〜




うちの、ホンモノの猫さんが毎度毎度リアクションしてくれるので、それが面白いってのもあるんだけど




屋外で(不特定多数のひとの前で)鳴らす勇気、まだありません


ま、そのうちに



では、オヤスミナサイマセ

posted at 23:40 | この記事のURL
手放す勇気 [2012年02月06日(月)]
昨日は劇場ワークショップの後で友達に逢い、美味しいコーヒーを飲みながらタロットリーディングをしてもらったり、いろいろな話をしたり、とてもシアワセな日だった。


住まいにたとえるなら、家じゅうのあらゆるドアや窓を開け放して光を入れ、風を通しながら大掃除をしました! みたいな感じ


いいね。こういう時間


あたし果報者だ、ホント




あれをやらなきゃ、こんなふうにならなきゃ・・・ じゃなくて、あれをやろう、こんなふうになりたい、と言葉を単純に言い換えるだけでも、心の立ち位置は変わってくる。



本当に大事にしたいことを、ちゃんと大事にするために、この身ひとつにあれもこれも抱え込まずに手放す勇気も、 「これ、今じゃなくてもいいよね」 と脇へ置いとくことも、あるいは 「私じゃなくてもいいよね」 とひとに投げちゃうことも(笑)、時には必要なのかも。



いい種をまいて、水やりも世話も手抜きなく頑張っていても、間引きをしなけりゃ密度が高すぎて、根っこが絡まり合って、1つもまともに育たない。




少しずつ、ね。




ブログも、しばらく更新しないと 「大丈夫ですか!?」 と心配されたりするから、そろそろ近況報告をしなきゃ・・・と思って書くことも結構あったりしたけれど、そういうのはやめにしよう。



心配してくれるひとはメールなり電話なりくれれば、どんな気分の時でも知らん顔はしないで答えるしさ



書きたい! と思うことや、見せたい写真や、共有したい話がある時だけの気まぐれにしちゃおう。




猫姫、欲張りさんだからね。


無意味に焦り屋さんだからね。





余分なものをひとつずつ手放していけば、師匠に言われた、


「今より5倍のエネルギーで生きてみろ」


とか、


「チョー楽しいことしなきゃ、1日終われないから!」


って言葉の意味もわかってくる気がする。





さて。


肩甲骨のストレッチだけして、寝ま〜す

posted at 00:18 | この記事のURL
愛が好きです [2012年02月03日(金)]
先月半ば頃、東京新聞の「無料試し読み1週間」の申し込みハガキがポストに入ってたので、さっそく申し込んでみた。


私は基本アナログ人間なので、メールより手紙が好きなのと同様、ネットニュースより新聞が好きなんだけど、新聞はすぐ山のようにかさばるからさ


1週間だけならいいか、と思ってたら、2週間過ぎても月が替わっても、ず〜〜〜っと毎日入ってる



流し込み、っていうんだわね、こういうの。


今月末あたり、洗剤やティッシュ抱えた営業さんがやってくるかも(笑)


東京新聞、結構好き。


実家も含め、今までに読んだことのある新聞の中ではいちばん肌に合う感じ。




ま、タイミングよく営業さんに会えたら、取ろうかね。


と、ありがたい無料配布の(!?)新聞をのんびり読みながら考え中





そういえばこの間、ちょっとびっくりすることがあった。


新聞や私宛ての郵便物と一緒に、他人宛の封筒がひとつ紛れ込んでいて。


あぁ、近隣の部屋のをうっかり間違えたんだな、と部屋番号を見ると、あれれ、合ってるじゃない??


もちろんアパート名も合っている。



・・・・・・



するってぇと、これは、私の前にこの部屋に住んでいた誰かさん宛てのもの、か?



しかもダイレクトメールの類ならともかく、某金融会社からの『ご利用明細』だったので、こういうのはちゃんと本人の手に渡らなきゃマズイでしょう・・・



郵便ではなくてクロネコメール便だったので、クロネコさんに連絡して事情を話し、引き取りに来てもらった。


クロネコのお兄さん、大変失礼いたしましたと恐縮してたけど、いやいや、あなたがたのせいじゃないですよ(笑)


配達間違いじゃないもんね、これは。


住所もアパート名も部屋番号も合ってるわけだし、郵便受けに名前シールの類は付けていないし、誰も。




私が引越してまだ間もない頃なら、前の住人さんが何らかの理由で住所変更を忘れていたり、遅れていたり、という可能性もなきにしもあらずだけど(私もAmazonの登録住所変更を忘れていて、注文したパソコンチェアが実家に届き、慌てて再配達してもらうというドジをやらかした)、もうすぐ1年半だよ?



他人宛の郵便物が入ったなんて、初めてだし(笑)



うーん、謎!?






何年ぶりだか、十何年ぶりだかわからないくらい久しぶりに、中島みゆきさんの歌詞集 愛が好きです』 (新潮文庫) を読み返している。






「変わりたくない、と思いながら変わってゆく人、変わってやろうと思いながら、あんまり変わんない人、きっとどちらも似たようなことをしているんだろう。

どうせ変わるなら、変わるぞと思って変わりたいし、変わらないなら、変わってたまるかと思って、変わらずにいてみたい。

ところが、私はどんな顔をしていたというのか……それがいつでも、わからない。」






この言葉、ね。


24歳のみゆきさんが書いた、この言葉が昔から好きだった。


最近ふと似たようなことを考える機会があって、どういう言い回しだったか正確につかみ直したくて、本を開いた。




「それがいつでも、わからない」




わかったふりをしない正直者が、ここにもいたね。


嘘とハッタリと理論武装ばかり上手くなって歳を重ねた私には、ちょっと眩しいよ。


かなり、せつないよ。





でも、色々みっともない自分を、またさらなる理屈で分析して責めて追い込むのも、そろそろやめにするか、とも思う。


誰のためでも誰のせいでもない、自分を騙して生かしておくためだけの嘘、ハッタリ、理論武装。


その時は確かに、必要なことだった。


ひとに守られることも、ひとを信じることも拒んで、誰にも頼らず弱みを見せず、それでもとりあえず生きるためには必要なことだった。




「いいじゃん」




ぽいと軽く投げられたような単純な言葉が、過不足のない体重を持って、私の中でいつまでもあったかい。



昔のことはどうでもいいじゃん、と肩をすくめて悟った顔する、そんな意味じゃないんだよね。





今、生きてるんだから、いいじゃん。


今、笑ってるんだから、いいじゃん。





今ここに生きているという事実と、そこに繋がる全てを当たり前に受け止める、さりげない覚悟のようなもの。



出逢ったことも、別れたことも、恨んだことも、捨てたことも、迷ったことも、わからないことも、答えの出ないことも、全てを。



勇敢に、真剣に、生きるひとでありたい。







ある占いによると、今年は私、人間関係がこれまでになく大きく変わる年であるらしい。


占いは遊びか気休め程度にしか信じないけど、これは結構当たってるかもしれないと思う。


心の在りようといちばんダイレクトに繋がるの、人間関係だもんね。



心の立ち位置が変われば、それまで見えなかったものが見えてくる。



漠然とした違和感の正体が少しずつわかって、その根っこにあったものが愛か、情か、溜め息か、疲れか、焦りか、寂しさか、もどかしさか、あるいは単なる時間の長さか、輪郭が少しずつつかめてくる。



知らないことは怖いことだが、知ることはもっと怖いこと、の場合も多々あり。



でも、悟った顔はしたくない。諦めたふりはしたくない。



自分の心を見失ったら、軌道修正もできやしない。


自分の弱みや、歪みや、怖れる対象がそもそもわからなければ、それらを敢えて手に取ることもできない。



私はこれが好き、私はそれが嫌い、私はそう思う、私には理解できない。


という、単純でまっすぐなわがままと同時に、





これも好きだけど、こっちも好きかな。


それもまあ、あり、か。


ずっとそう思ってきたけど、あ、今、迷ってるかも。


理解できないしイメージも湧かないけど、あなたの言うことなら、ちょっと考えてみるかな。





ぐらいのしなやかな優しさを少しずつ、持てればいいなと思う。






変わるの変わらないのって、いつになく真面目に考えてるのは、お師匠サマから宿題を出されているからで。




「何をして、何がどう変わったか、メモしておいて今度提出するように。いい? 続けるならね」



と。



怖いこと、嫌いなこと、避けてきたこと、不得手なこと・・・それらを拒否することをやめてみろとは、臆病者の私にとってはかなりハードな難題で、難しいナァと気弱につぶやくたび、難しくないッ、と一喝された(笑)



扉を開けることは難しくないッ、と。





いやいや、難しいんだよ、実際。


私の「嫌い」は「怖い」と双子のきょうだいみたいなもんだしさ(笑)


心が方向転換しようとしても、いきなり勇敢に柔軟に優しくなれるわけじゃなし、変わること自体、漠然と怖いよ。


でも、だから無理だとか、できそうもない、とは言ってないから。


真剣にじたばたやってみるから。


現実を生き抜く揺るぎない実力と、とことん熱い優しさの底力。


あなたのようにまっすぐなひとに、私はなりたい






じたばた、おろおろ、泣き笑い。



いいじゃん。



とりあえず今夜、笑って生きてるし、ね





今さらだけど、『愛が好きです』って、いいタイトルだなぁ


posted at 00:38 | この記事のURL
ひとがひとに求めること [2012年01月30日(月)]
私はこういう穏やかならざる気性だから、自分が傷つくことよりも相手を傷つけてしまうことのほうが何倍も怖い。


と、言った。


誰かに傷つけられたとしても、その傷は自分サイドにあるから、自分の心の持ちようや時間の経過、あるいはほかの誰かの支えやフォローで消せるかもしれない。


でも、誰かを傷つけてしまうと、その事実と結果は私ではなく相手のものとなってこの手を離れてしまい、私の心の持ちようでは解決できないモノになるから怖いのだ、と。



「怖い、ねえ?」



師匠はちょっと首をかしげて言った。



「ひとを傷つけることが怖いの? ひとを傷つける自分になるのが怖いの? どっち」



どっち・・・私はオウム返しで口ごもったまま、答えられなかった。



「それにさ、えぇ〜ちょっと待ってよ? 傷つけられた事実って消える? そんなもん消えないよ、っていうか消さないよ、あたしは。悔しいじゃん」



ぎくりとする。


消せるふりで、忘れるふりで、許すふりで、相手にも事情があって思いがあって、相手も傷ついていたのかもしれないんだから、なんて無理に自分をごまかしつづけてばかりいるから、逆にいつまでも疼いて消えないんだろうかね・・・こういうのは。



正直者と嘘つきが鏡越しに目を合わせる。


嘘つきは笑うふりして目を逸らす。




「プライドが無いわけじゃないんだよね。でも、中身は空っぽ」



猫姫はプライドが高い、理想が高い、だから×××なんだ、という言い方をみんながする。


無いわけじゃない、程度? しかも、中身の無いハリボテ?(笑)




美しくないことがわかっているから、化粧や衣装で飾ろうとする。


自信がないからこそ不遜にふるまってみせる。


いつも元気で明るくてエネルギッシュでアクティブで、やりたいことをやりたいようにやってる自由人だと思ってもらえるのは、私の筋書き通りのなりゆきだから至極満足。


の、つもりで、当たり前で。


それが通用しないどころか、ことごとく、顔色ひとつ変えずにひっぺがされる。


今まで、周りの誰からも一度も言われたことがない言葉ばかりを浴びせられる。



わがままだと。


怖がりだと。


エネルギー不足だと。


求められて応じるひとじゃなく、世話焼きでも便利屋さんでもなく、自分から「与える」ひとになれ、と。


素顔を隠さずに堂々とさらして、それを好きになってくれるひとを見つけなさい、と。


そうする方が、自分で自分を好きになったり認めたりしようとするよりずっと簡単なことだ、と。



・・・・・・。



抱えきれない大量の「初めて」に理解が追いつかなくて持て余して戸惑っていると、からかうようにニヤリと笑われた。





「何が怖いわけ」


「何が怖いんでしょう」


とんちんかんな問答。




自分が何に怯えているのかさえわかっていない私のために、マスク姿の風邪っ引き師匠は真剣に考え込んでくれる。




うーん・・・ どう言えば・・・



そうだな・・・ 何かに例える、か・・・



んー・・・





大抵の場合、ひとは会話中の沈黙を怖れるから。


会話の内容がヘビィであればあるほど、怖れるから。


「まぁね〜、難しいんだけどね〜」 とか、「う〜ん、まあいろんな考え方あるけどさ〜」 みたいな、当たり障りのない合いの手を挟んで時間稼ぎをしようとしてしまうことが多い。



師匠、そういう逃げ方を一切しないんだよね。



当たり障りのないことは、イコール「障り」だと、毒にも薬にもならないものは「毒」だと、はっきり言い切ったっけね、そういえば。



言葉が見つかるまで黙って、眉間をしかめて真剣に考えてくれる。




「求めてないよ。ひとはね、そんなに求めてない!」



いつも元気で笑っていてフットワーク軽く、使えるヤツと認められて、ひとから頼られ、求められ、それらにいつでも応じられて、ひとの役に立っていなければ生きていていい気がしない私に、師匠はそう言った。



「ひとが、ひとに求めることがあるとすればね。その目の前の相手が幸せでいてくれるように、ってことぐらいだよ」



不出来な弟子は、今度こそ涙を堪えられなかったけれど。



あなたは歌の先生で、それ以前にプロの音楽家で、心理カウンセラーでも私の子守でもないのにね。



ありがとう。



私にはそれこそもったいないほどの師匠の真剣さ、正直さ、無駄にはしません。



ちゃんと受け止めて、考えて、必ず応えます。



言葉に尽くせない、感謝。




「ひとが、ひとに求めることがあるとすればね。その目の前の相手が幸せでいてくれるように、ってことぐらいだよ」




この言葉を、私は生涯忘れない。

posted at 01:17 | この記事のURL
♪No day but today [2012年01月28日(土)]
24&25日と連続で、山本耕史さんのライブに行ってきた


24日の夜は、18時になると同時にタイムカードを投げて(!?)会社を飛び出し、駅まで一生懸命とことこ走って (例の大雪の翌日で路面が凍っていたので、勢いよく走ると勢いよく転ぶ危険が・・・) 快速に飛び乗り、劇場前の綺麗なトイレに駆け込んで、スーツのジャケットを脱いでフワフワのセーターを着て、ベルトやアクセサリーをちょっと派手めのものに付け替えて、髪とメイクを直して、滑り込みセーフ!!


いちばん前の左端、という、いいのか悪いのかわからない席だったけど、とりあえずギリギリに駆け込んでも迷惑にならない位置でよかったかも?(笑)




しかし・・・


前なのは嬉しいけど・・・う〜む、しかし、だ、この席はヤバくないかい??


と、一抹の不安


私と舞台の間にそびえるように立ちはだかっているのは大きなスピーカー。




その図体で舞台の一部分が見えづらいことはさておき、問題は音だ。


始まったら私の体はステージの方、つまり右を向くことになるから、そのスピーカーから溢れてくるであろう大音量は、左耳をもろに直撃することになるわけで・・・




突発性難聴は再発しやすいですからね、ライブハウスやパチンコには行かないように、イヤホンの音もなるべく小さめにするように・・・なんて言われたしね、去年の今頃。


パチンコはべつに行きたくないからいいけど(笑)ライブは行きたいぞ〜、と内心で苦笑いしながらハイと返事しておいた。





・・・真っ黒な巨大スピーカーが、黙ったままひっそり笑う。


まもなく開演、のアナウンスが流れる。





・・・よし。


病は気から、というじゃないか




どんなに用心してたって、ひとの体なんて気まぐれで脆いもんだから、故障する時はするさね。


来るなら来てみろっ


大好きな、大好きな、心の底から惚れ込んだひとのライブで壊れるような、そんなトンチンカンな耳であってたまるかっ(笑)




1曲目は、愛してやまないロックミュージカルHedwig and the angry inch から “Tear me down”



♪ やるっていうの? 受けて立つわよ、さぁ、あたしを引き倒してみな! ♪



そんな挑戦的な歌詞、まぁ〜、何て私にぴったりな(笑)




You want me baby I dare you, Try and tear me down! 



客席は総立ち。


手拍子、ジャンプ、突き上げる拳。


ヒールブーツも何のその、私も飛び跳ねながら一緒に歌った。




愛しの師匠、中山眞美さんも、ボーカルとしてステージに居た。


舞台上の立ち位置としては、一歩下がった “コーラス” なのだけど、耕史さんはバンドメンバー紹介の時に、


「オン・ボーカル、眞美!」


と、とても嬉しそうに誇らしげに言った。




コーラスじゃなく、ボーカル。


些細なことだけれど、私まで嬉しくなった。


本当に互いを認め合い尊敬し合っているんだ、と。


最高の仲間だね。


いいね。


すごく、いいっ


見ているこっちまで幸せに満たされる。




1月25日は、あのブロードウェイミュージカル『RENT』の作者、ジョナサン・ラーソンの命日だ。


音楽を創りたい、みんなが聴いて、覚えて、幸せになれるような音楽を創りつづけたい・・・・・・そう願いながら、ニューヨークの安アパートでアルバイト生活をしながら作曲をしていたジョナサン。


1996年1月、ようやく上演にこぎ着けた『RENT』の幕が上がる前夜、リハーサルを終えて帰宅した部屋で突然倒れ、そのまま35歳の若さで旅立ってしまったジョナサン。



RENT』がこんなにも愛される、愛され続ける作品になったことを、彼自身は見ることができなかった。





2001年に耕史さんがマークを演じた『RENT』の舞台を私は観ていなくて、その時の3曲が収録されたCDと、映画版(ブロードウェイのオリジナルキャストによるもの)しか知らなかったので、今回は、やっと夢が叶う! という嬉しさもひとしおだった。



今回のライブで歌われたのは、「Rent」、「What You Own」、「Seasons of Love」 の3曲。


Japan RENT のキャストが14人、耕史さんの初演出作『GODSPELL』のキャストも4人(眞美さん以外で)、そして天国からも1人。




姿のない彼のためにもスタンドマイクが用意され、


「健ちゃん!」


と、メンバー紹介もされた。


舞台と客席から湧き上がる拍手は、誰の時よりも大きかった。




うん。


居てくれたよね。


あそこでみんなと視線を交わし、笑いながら歌っていたよね。


体はなくても。


サイドボーカル・Daiさんのお兄さん、結樺健(本名・渡辺健)さん。




彼の優しい眼差しと深い声を、私もちゃんと確かに感じていた。


願いや想像じゃなく、体じゅうで感じていた。


彼は今頃、ジョナサンと並んでひとつの譜面を覗き込み、楽器を抱いて曲作りをしたりしているかしら。


向こうの世界で。


そんなふうに考えると、何だかね、死ぬのもまんざら寂しくない気がする。





いやいや、もちろん、まだしばらくは生きてたいけどさ(笑)


こっちの世界の、大好きなひとたちと一緒に



今日のブログのタイトルは、今回のライブでは歌われなかったけれど『RENT』のナンバーのひとつ「Another Day」の歌詞。




昨日も明日もない、過去も未来もない、今日しかないんだよ、と。




それは、刹那的とはちょっと違う。


本当に、今日しかないかもしれないんだから。


たとえば誰かに、あなたが好きだと伝えるのは。


たとえば誰かに、ありがとうと言うのは。


たとえば誰かの手を握るのは。


たとえば誰かを抱きしめるのは。


明日、私はこの世に居ないかもしれない。




そういう「明日」は、遅かれ早かれ、誰にも訪れる。




舞台も客席もみんなで声を合わせて歌った「Seasons of Love」は、こんな歌詞。



「 52万5,600の過ぎた時
  3,153万6,000秒
  Five hundred twenty five thousand
  Six hundred minutes
  どう数える 1年を



  それはLove きっとLove
  How about love?
  季節は
  Seasons of love 



  52万5,600の旅のあと
  Five hundred twenty five thousand
  Six hundred minutes
  どう数えればわかるの その重さが 」





中島みゆきさんのアルバム『夜を往け』のライナーノーツに書かれていた、




「君は何年 生きていますか あたし 他人を喜べる数で時を数えたい」



という言葉を思い出して、胸が熱くなった。




あ、みゆきさんといえば!!


RENT』のキャスト陣の中に、坪倉唯子さん!!


Japan RENTのジョアンヌが彼女だったなんて、知らなかったわ〜


舞台、観たかったわ〜〜〜


そう遠くないうちに、再演してくれそうな気がするけど。


このひとたちなら。




感極まって、歌いながら泣いてしまったね、唯子さん。


あなただけじゃないけど。


大丈夫、私のほうが先に泣いてたから(笑)


心を揺さぶる歌声をありがとう。




No day but today・・・


今日しかないから。




本当に大切にしたいひとを、大切にしたいことを、心いっぱいで抱きしめていよう。


縁を繋ぎ合った相手に感謝しながら、縁を手放した相手の幸せを祈ろう。


時は移り、ひとは変わる。


過ぎ去った何もかもをずっと抱え続けるには、人生はたぶん早すぎる。




明日も(あ、もう今日だ)、大好きなひとに逢ってくる。


Seasons of love は、A day of love が積み重なってできている。きっと。


52万5,600 の I love you



そうやって少しずつ、自分の人生も慈しめるようになりたい、ね



あ、そうそう。


私の左耳、無事に元気です!(笑) 



posted at 02:29 | この記事のURL
海の向こうの Working Girl [2012年01月22日(日)]
2007年から、ワールド・ビジョン・ジャパン(開発途上国の子供たちの生活をサポートする支援団体)の会員になっている。


1人目として紹介された“チャイルド”は、ラオスに住む10歳のB.Kちゃんだった。


プロフィールカードに貼られていた、かすかに眉をひそめてカメラを見つめながらすっくと立つ彼女の写真は、背が高いせいもあってか、実年齢よりかなり大人びて見えた。


年齢は10歳でも、小学校での学年は2年生だった。


翌年には3年生になったが、その次の年は「家業手伝いのため」ということで学校には行っていなかったらしい。


ワールド・ビジョン・ジャパン事務局が年に数回、近況レポートや彼女からの手紙や絵を郵送してくれていて、私も返信をしたり、ささやかなプレゼント(可愛いカードや文房具、ブレスレットなど)を送ったりしていた。


年が明けてすぐに「もうすぐあなたのチャイルドのお誕生日です」という案内が届いたので、それじゃまた何か綺麗なバースデイカードを選ぼうか、と思っていたら、数日前にまた封筒が届き、そこには彼女への支援が終了となった旨が書かれていた。




「理由は、チャイルドが仕事に就き、今後は自分の力で生活できる状況となったからです。チャイルド及び家族との話し合いの結果、現地スタッフは、チャイルドが働きたいという意思を強く持っており、この選択がチャイルドと家族にとって最良のものであると判断いたしました」




弟や妹が3人いて、家の仕事の手伝いに時間を取られ、小学校に籍をおいていてもスムーズに進級はできなかった彼女。


この4月に、14歳になる。


「支援を受けながら学校へ通う子供」であることをやめて、「自分の力で働いて生きる大人」になることにしたんだね。





そこにどれほどの「選択肢」があったのか・・・


それを考えると、複雑な気持ちになるけれど。


学校に通うことをやめて働くことを「選択」した彼女はまだ13歳。


日本でなら、親や周囲に甘えっぱなしで当たり前の中学生。





支援終了となったチャイルドには、もう手紙などを送ることはできないシステムになっているから、今年のバースデイカードは届かない。


でも、私はあなたを忘れないよ。


ブレスレットをありがとう、という手紙の最後に、綺麗な龍の絵を描き添えてくれたB.Kちゃん。


微笑みのかけらも見せない凛とした眼差しは、少女というより生真面目な青年のようだった。




生きることは闘うこと だと、こんな豊かな甘い国に生きている私ですら感じるけれど、あなたにとってはもっと切実だよね。




頑張れ、B.Kちゃん。


家族のために働くお姉ちゃん。


海を越えて、時を越えて、エールを送ります。




posted at 22:12 | この記事のURL
癒しの代償 [2012年01月17日(火)]
仕事は相変わらずアンバランスに暇で、それが逆に疲れちゃう


今朝は、出勤したら私のデスクにパソコンが設置してあったので、あぁ、やっと! と思ったら、コードはぐるぐるとまとめられ、ディスプレイには「修理中」と書いた大きな紙が貼ってある。


何ですかコレ、と訊いたら、ネット回線は繋がったが、肝心のパソコン本体を起動させようとしたら見事に故障していて、修理(もしくは交換)ができるのは来週になるとか。


だったらコレ、何さ(笑)


修理中じゃなくて、単に故障中でしょうが!


置いといて自然治癒するもんじゃあるまいし、直してから持って来いよぉ〜


限られたデスクスペースに、文字通りの「使えないヤツ」が大きな顔して居座っているのは、邪魔以外の何ものでもナイ


年明け前から雇い入れた派遣社員を1ヶ月もとことん暇人にしておいて高い時給をくれることからしても、大らかというかアバウトというか、なかなか不思議な会社だ。


・・・実際、暇で退屈なんて、あまりにも贅沢すぎる悩みだけどさ。


身を粉にして働いても雀の涙ほどの収入しかないひともいる、というか、そういうケースのほうが多そうなこのご時勢。


明日は我が身、かもしれないけどさ、みんな。


バランス悪いよね。


もうちょっと、何とかならないのかね。


・・・と、今さらのように考えてしまったりもする。






さて、ここからはちょっと汚いハナシをします。


食事の前後の方はどうぞUターンを






・・・・・・




・・・・・・




・・・・・・






帰宅したら、犬猫トイレの脇にあるトイレ用ゴミ箱がひっくり返されて中身が散らばっていた。


いくら退屈しのぎにしても、美味しい匂いが残っている台所ゴミならともかく、自分たちのトイレゴミをオモチャにするか、普通!?


寒い中、お腹すいて帰ってきて、着替えるのもそこそこに、これでもかというほど派手に散らかされたトイレの始末に追われるってのは、なかなか本気でむかっ腹が立つもんだわよ


とはいっても相手が犬猫なので、もーッ、アンタたちはさぁ、どーしてこういう、もーッ、疲れてンのにッ、いいかげんにしてよね、もーッ・・・と文句を言う(叱る、というわけじゃない。過ぎたことを叱っても無意味なので、単なる大声の独り言めいた文句にしかならない)だけなんだけど。





やっと片付いて、チビたちのゴハンを出して、自分も着替えて作り置きのおかずやら何やらチンして、お茶も淹れて、録画しておいたWOWOWの洋画を観ながら食べ始めた、ら。



カリカリといい音を立ててドライフードを食べた直後から、えらいハイテンションで猛烈ダッシュ&ジャンプをくり返していた美羽にゃんこが、棚の上から床に向けて勢いよく吐くし・・・



・・・・・・



食べた直後に飛んだり跳ねたりしたせいか、はたまた毛玉がある程度溜まったのか、月に1度くらいこういうことがある。



血液や異物が混じってさえいなければ、猫が吐くこと自体は異常ではないけど、当たり前ながらキレイなもんじゃないから後始末は大変。



せめて普通の床の上でやってほしいもんだけど、猫にそういう常識や気遣いは皆無だから、棚の上から降らせたり、ベッドの上でやらかしたりする。



・・・今日も。



最初のを掃除している間にベッドに飛び乗り、羽毛布団も毛布も厚手のニットのカーディガンも、さっき外したマフラーまで、見事にやられた。



うわッ、もう、ちょっとッ! いいかげんにしてよッ!!



と、私の文句はほとんど悲鳴



食べかけの夕飯ほったらかしで、大急ぎで吐いたモノを取り片付け(布団に染み込まないうちに)、汚れた場所を水洗いしてから、毛布、掛け布団カバー、シーツ、ベッドパット、枕カバー、コットンマフラーを洗濯機の脇に積み上げ(もちろん全部同時には洗濯できないから3回に分けなきゃならないし、厚手のニットは手洗いするしかない)、そうこうしている間にもやたら小分けにしてあちこちで吐くから、ネルが踏んだりなめたりしないように追いかけ回して片付け・・・・・・



あぁ・・・疲れた・・・すごく




犬と猫がいます と言うと10人中9人は、


「わぁ〜、いいですね! そういうのがいると癒されるよねぇ〜〜〜


と言ってくれるけどさ。




そりゃ、どんなに手間かかっても文句言っても、どうしようもなく可愛くてたまらないけどさ。




「癒されるイメージ」の陰にあるこんな現実を、あなたは想像できるかい?(笑)


ま、人間の乳幼児も同じだろうけど、カワイイカワイイだけじゃすまないこと、いっぱいあるわよね


まったくもって面倒くさいからこそ愛しい、とも言える






ベッドリネン、洗い替えたばかりだったのに、も〜〜〜


どうせだから、毛布の洗濯&乾燥が済むのを待つ間に羽毛布団を「ふとん乾燥機」にかけて、ふかふかのほかほかにしてやった。


今夜は新品のベッドで早寝するんだ


性能のいい洗濯機に感謝、感謝(笑)

posted at 23:33 | この記事のURL
すぽん!? [2012年01月17日(火)]
何が始まりだかわからないくらい前から、あるような無いような・・・微妙な感じでひっかかっていた何かが、すぽん! と抜けた気がする。


身軽になった気がする。


なんせ、あるような無いような不確かなレベルの違和感にしかすぎず、私ひとりの気持ちで解決できることでもなかったし、手放すきっかけを作ってくれたひとに感謝、かな


厄も完全に抜けたな、これは


いや実際、抜けててくれなきゃ困るんだよ(笑)、何たって女の30代は厄年ループだから、前厄・本厄・後厄のいずれにもあたらない歳ってのは今年ぐらいだと思うし


やりたいことは両手でも数え切れないけれど、目の前の現実をなおざりに流しておくわけにもいかないから、やっぱりバランス。


厄年が明けたら、「躍年」だよね




「夢を右手で抱えて 夢を左手でなぞって」

       ――Song by 『3 wish』 (Koji Yamamoto&K.D earth)




大好きな歌を口ずさみながら、いざ、Action!!


私の取り得は行動力と想像力くらいのもの(笑)


・・・たまに勢いよくつむじ風起こしすぎて周りもぶっ飛ばしちゃうかも、なので、そうならない程度に、自分も疲れすぎない程度に、走ります

posted at 00:11 | この記事のURL
ボニー&クライド [2012年01月15日(日)]
ミュージカル『ボニー&クライド』@青山劇場、観てきました


アメリカに実在した若き犯罪者カップルで、最期は警官隊に取り囲まれて100発以上の銃弾を浴びて死んでいったんだっけ・・・、くらいのことしか知らなくて、原作の映画『俺たちに明日はない』もちゃんと観たことはなかったので、あえて予習はしなかった。




中山眞美さん同様、一昨年の『GODSPELL』でFANになった明星真由美さんが目当てではあったのだけど、ヒロインのボニーを演じた濱田めぐみさんも素晴らしかった!!


ハリウッド女優になる夢としがない家業手伝いの現実とのギャップに苛立つ、勝気で美人でちょっとあぶなっかしい少女が、クライドとの出逢いをきっかけに、一途な愛と壮絶な覚悟で人生を駆け抜ける女へ変わってゆく。


目つきも、声も、別人のように変わってゆく。




クライドの母親を演じた明星さんが、パンフレットで、


「単にスタイリッシュな物語にはしたくない」


と言っていた。




とても、腑に落ちた。


古今東西、一般人はとかく型破りでアウトローなものに惹かれがちになるけれど、実際に彼らがしたことは、夢を叶えるためには金が要る、という単純な理由であちこちの店や銀行で強盗をはたらき、抵抗した相手や追ってきた警官などを何人も射殺したという、どう見ても同情の余地はない「凶悪犯罪」だったのだから。


幼なじみや親きょうだいの心配も振り払い、悲しませ、苦しませた。


それでも憎めないのは・・・、こうして何十年もたっても、ひとびとの心を惹きつける物語として成立してしまうのは何故だろう。


ワルのカッコよさ、以上に、ボニーとクライドの愛があまりにもまっすぐで。


――二人で手を取り合って走れるところまで走りつづけ、だめになったら二人一緒に死ぬだけだ。


その捨て身な覚悟はあまりにも幼くて、一点の迷いもなく堂々としていて、いっそ眩しいほどで・・・、だから何も言えなくなってしまうのだ。



物語の結末をわかっていても、どうか逃げ切って生き抜いてくれないか、と願ってしまうのだ。





誰が何と言おうと、世間に後ろ指さされようと、私はあなたを愛している。


この命と引きかえにしても、大切なあなたを守ってみせる。





それが恋か、愛か、情か、男か、女か、友か、きょうだいか。


そんなことはたいした問題じゃない。


相手が自分をどう思ってくれて、自分に何をしてくれるか、そんなことはもっと、どうでもいい。



「心のままに 愛するひとを 愛する」



ボニーの歌声がいつまでもこだまする。





帰りの電車の中で、女友達のことを考えていた。



先日、付き合っているひととの間のかなり重たい話(というか、不安と憶測にもとづいた愚痴)を私にぶちまけた彼女から、午後に電話がかかってきた。



おいおい、またこの間の続きか・・・と思いつつ、出かける予定があるから3時頃までならOK、と最初にタイムリミットを宣言して話を聞いた。



「猫姫ちゃんが言ってたみたいに、ホント、人生は短いって思うわ・・・」



としみじみと言っていた。



そんなことをあらためて感じる何かがあったのか、わざわざ聞かなかったけれど、うん、そうだよ。


短い人生。いつどこで終わるか、誰にもわからない人生。


本当に大好きな、大切な相手なら、信じようよ。


連絡が途切れがちになった不安を、すわ浮気と決めつけて、相手の見当はついてるのどうのと女友達を相手に愚痴って泣いてる場合じゃないぞ〜、私の嫌いな恋愛ドラマじゃあるまいし(笑)


愛してるなら、顔上げて堂々としてなよ。


周りの全員から祝福はされない形だとしても、あなたの恋は誰かの幸せを奪ったり傷つけたりするものじゃ、ないでしょう?



何か吹っ切れたのか、彼女がかなり元気になっていたので嬉しくなって、今度はまたノロケ話を聞かせてよね、愚痴は重いけどノロケならいくらでも喜んで聞くから、と言ってやった




私があの時、話を聞きながらすこぶる不愉快になったのは、彼女の話し方の中に悲劇のヒロインくささみたいなものを感じてしまったから、かもしれない。(と、本人にも言ったけど。今日の話し方の中にはもうそれが無かったから


女ってこういうものなのよね、私も女だからどうしようもないのよね、猫姫も恋をしたらわかるようになるだろうけどさ・・・みたいな「いかにも女っぽい」ベタベタ感。




直接そういう言葉ではなくても、言うことの端々に見え隠れする「アタシって恋愛経験豊富なオンナ」の優越感。




べつの女友達からも、


「そんなふうだから彼氏できないんじゃない」


という台詞を一度二度ならず言われたことがある。



そりゃ男性とお付き合いした経験はないし、今も「彼氏」はいないけど、いないという事実と、できない=求めているのに叶えられない、ということはまるでニュアンスが違ってくるじゃない。



べつだん悪気がないことはわかっていても、昨日今日の付き合いでもない友達からそういう台詞を聞くのは、気分のいいもんじゃなかったりして。



とはいえ、私も自分の感覚が、いわゆる「一般的」「普通」と少しばかりずれているらしい自覚はあるんだわよ(笑)



相手が男か女か、恋人か愛人か伴侶か友達か家族か、あるいは憧れのひとか尊敬するひとか守ってあげたいひとか・・・、そういうタイプ分け、カテゴリ分けができないから。



大事なひと。


かけがえのないひと。


ただ、それだけ。




そういうひとが、数人いる。


もしもそのひとに銃口が向けられたら、一瞬の迷いもなく自分の体を盾にできるような相手。



この広い世の中で、この短い人生の中で、そんなにも愛おしい相手に出逢えたことを誇らしく、嬉しく思う。





猫姫は生き急いでいる、とよく言われる。


まだ若いのに、元気なのに、どうしてそんなに息を切らしているの、と。





昔はいろいろあったから。


今この歳になってようやく自分の人生、自分の意思や希望や欲望らしきものをつかんで、失くしたものを取り戻そうとするように焦っているのも否めまい。


でも、それだけじゃなくて。


えっ、まさか今日、今!? という周囲の予想外のタイミングで命を終えてしまったひとを、身近で何人も知っているから。




人生は短い。


ひとはいつ死ぬかわからない。




「たとえ今日死んでも悔いのないように生きよう」


なんて言葉があるけれど、そんなふうにできるひとはまずいないだろうから。


だから、尚更。


黙って悩むくらいなら一歩、ほんの一歩でも違う方向に自分が動いてみよう。


他人に愚痴るくらいなら、当事者に当たって砕けよう。


それが正しい道か間違った道か、わからなくても。


単純だけれど、真剣に生きたい、と思う。


適当に力を抜いてじゃなく、その場しのぎの綺麗ごとじゃなく、真剣に受け止めて、真剣に考えて、感じて、動きたいと思う。


やっぱり息切れする人生かな、私は・・・(笑)


こういうのを近くで見ていて疲れる、と思うひとは、遠慮なく距離をおいてくれたらいいと思う。


そのひとの人生だって、短いんだから。


疲れる相手と無理して付き合うことなんか、ないんだよ





『ボニー&クライド』から大幅に脱線して、いろんないろんなことを考えてしまいました。


そろそろ寝よう。


愛しき次女、もとい、ホカホカのにゃんこを抱っこして(笑)



おやすみなさい

posted at 03:23 | この記事のURL
よのなかは ちろりに過ぐる [2012年01月13日(金)]
あー、眠い。

時間が足りない(笑)

今週はなぜか、うんざりするような厄日続きなんだもんさ。



私は結構短気で怒りっぽいので(ウジウジと持続はしないけど)、こういう時って、眠ってても心安らかじゃないらしく、自分の怒声で夜中に目覚めたりする。


添い寝ムスメの美羽たん、ごめんよ〜



携帯から、要らなくなったアドレスや画像や受信メールの類を整理(年に1〜2回やる)していたら、何の操作を間違えたんだか受信メールをみんな消してしまったのがケチのつき始め。


もっとも、大切なメールは保護をかけるかPCに転送するかしているから、すごく大きな支障はないんだけども、それでもこういう予想外のアクシデントは、何だかねぇ


引き続き、女友達(しかも2人も!)からの、それぞれ結構ヘビィな愚痴が降って来るやら、そろそろ片付く頃だった前職の労災の処理が書類の不備で滞っているという連絡が今になって入るやら、詳しくは書かないがもうひとつふたつ不愉快な出来事もあり、日替わりメニューじゃないんだからどいつもこいつも(もちろん自分自身も)もう〜、いい加減にしろよっ!! と



なんか、自分がゴミ箱になったような気分だった。




「よのなかは ちろりに過ぐる」



そんな言葉を思い出して、荒んだ心をなだめてみる。



これはね、15年くらい昔のNHK大河ドラマ『毛利元就』の中の、元就の妻・美伊(演じていたのは富田靖子さん)の台詞。


人生なんて、あっという間に過ぎてしまうのよ、という意味。


実際のところ、彼女は元就と深く愛し合って、素晴らしい息子たち(三本の矢、ね)にも恵まれながら、40歳そこそこで病死してしまう。


決して豊かではない小さな山城で、家族や家臣たちと力を合わせて懸命に生きた、ちろりの人生。


あたたかな愛と堂々たる笑顔と、しなやかなバイタリティだけは絶やさなかった人生。


いつどうなるかわからない、所詮短い人生なら、美伊さまのようでありたい。





さて、今日は本当は書きたいこともいろいろあったのだけど、なんせイライラしっぱなしであまり寝てないので寝不足で、眠くて・・・



毒消し&厄払いの写真を紹介しますです、ハイ





子供のように背伸びしてテレビを見つめるネル。


これは『くろねこルーシー』という連続ドラマを観てるところ。


2匹の真っ黒な子猫が出てくるから、ミィー、ミィー、と重なり合う鳴き声がするのね


ネルはうたた寝していた炬燵から飛び出してきて、ベッドの下やらカーテンの陰やら、その鳴き声の主をあちこち探し回った挙句、わかった、ここだっ! の図(笑)




ルー&シーならぬ、かつて縁結びのお手伝いをした黒猫姉妹のクー&チャー、元気にしてるかにゃ・・・


そっくりだから思い出す。


私に出されたケーキに鼻をくっつけて、白くなった鼻をペロリとなめて満足げだったおちびさん猫。


なつかしや〜





昔のお嬢さん、ならぬ、昔のおちびさん。


理屈抜きに、愛しいです。


ママにとっては、いつまでも赤ちゃんみたいなもんなんです。にゃ





これは今夜ではなくて、昨夜のお月さま。


もちろん、いちばん上の大きいのがそうで、周りにぽろぽろといる小さいのはアパートや電柱の外灯(笑)


イライラ満載に詰め込んだ心には、いい安定剤になってくれた。





長年にわたって大切に持っていたものを、今日ひとつ手放した。


とても寂しいかと思いきや、意外とそうでもない。


楽になった、ような気がする。


重ねた時の長さゆえに、疲れた部分もあったのかもしれない。


また時を経て、再び手に取ることがあっても良し、なくても良し。




少なくとも後悔は何もないことだし、先のことは ケ・セラ・セラ だと思うことにしよう





「ほかの誰にも言えない 本当のこと

 あなたよ あなたよ 幸せになれ」




ザ・ブルーハーツの『ラブレター』が頭の中をエンドレスで回る。


回れ、回れ、もっと回れ。




荒んだひとも疲れたひとも、みんなみんな、幸せになれ

posted at 00:38 | この記事のURL
あなたよ あなたよ 幸せになれ [2012年01月12日(木)]
寒さのせいか過労のせいか、父が風邪をひいたらしい

高熱は出なかったもののお腹に来ちゃったそうで、えらく弱った声をしていた。


独り暮らしはそれなりに気楽でいいもんだけど、病気になると心細いんだよね。

それも、家事全般に手慣れた女と還暦過ぎの男とでは、全然違うしね。

とりあえず今朝病院へ行って、厄介な大きい病気でないことはわかったそうだし、夜にかけても悪化はしていないようだからよかったけど。


ホント、離れてると、健康以上の家族孝行はない気がするわ、お互いに

何はともあれ、元気でいたいもんです。




さて。


今日は久々に女友達と言い争い(正確にはメール争い。顔を合わせたものではないから)をした。


お互い、ふんわりおっとりした性格の持ち主ではないからして(笑)珍しくはないことだけど、いろんなやりとりの最後に来たメールが傑作だった。



「そりゃ、彼氏もできないよ」



珍しく30分のプチ残業だったので、昼過ぎに送られてきたそのメールを見たのは帰りがけの駅のホーム。


思わず吹き出してしまい、こりゃどういう返事をしたらいいもんかと首をひねった。



要するに、彼女の恋愛絡みの行き詰まりに、私が慰めや同情を一切寄せずに現実的なことばかり言ったものだから、それが寂しかったか腹立たしかったかしたんだろう、と思う。



昨日今日の付き合いじゃないんだからさ。


私がその場つなぎの耳ざわりのいい慰めを言う性格じゃないことも、リアリストなことも知っているはずだし、何より、己れの恋に結構大きい障壁があることを誰より知っていたのは彼女本人のはずだから。



慰めてほしいなら最初から話す相手を選びなよ、と突き放した直後のメールが、それだった。



彼氏ねえ・・・確かにいないけど、できない=求めて望んでいるのになかなか叶わない、ってわけではないんだから、そう見くびらないでほしいもんだわよ



昨日だか一昨日だか、朝のニュースで、初詣を終えたひとたちに何を願ったのかとインタビューすると、若い女性は圧倒的に恋愛絡み(好きなひとが振り向いてくれますように、彼がプロポーズしてくれますように、とか、今年こそカレシがほしいです、とか)が圧倒的に多かったのね



うん、恋は生きるエネルギー源になるもんね。



ホントに大好きなひとがいると、心が元気になり、髪が柔らかくなり、気持ちの持ちようがしなやかになり、いろんなことに意欲がわく。


それは、カレシだのレンアイだのという狭い意味じゃなくて。


男でも、女でも、どっちの歳が上でも下でも、関係ない。



たぶん私が彼氏を求めていないのは、そういう役名(!?)でなくても、大好きなひと、心底惚れてるひとが何人もいるからだろうと思う。


普段はご無沙汰続きでも、いざという時、頼ってくれるひともいる。


普段は頼らないけど、いざという時は力になってもらえると私が確信しているひともいる。


憧れているひとも、尊敬しているひともいる。


わが子のようなネルと美羽もいる。



私は心から望んだことや願ったことはことごとく叶ってきているから、かなり強運の持ち主なんだろうとは思うけれど、中でもひととの縁はいちばん、自分の努力や希望だけでは叶いづらい類のことだし・・・・・・うん、むしろ奇跡のような、ありがたい贈り物みたいなものだよね



カレシ、という言葉は嫌いじゃないよ。

背伸びした少女っぽい感じで、なんとも可愛い響き



でも、三十路を過ぎた女が、カレシができないとか、いないとか、ほしいとか、そういう言い回しはさすがにちょっとおかしい気がするな(笑)


結構みんな、言うけどね。


猫姫にもカレシができたらわかる、とか。


カレシがほしいと悩んだり、そんなふうだからアンタにはカレシができないんだ、と友達に捨て台詞を吐いても可愛げがあるのは、せいぜい25歳くらいまでじゃないかなぁ・・・ と、そういう年齢の頃には今より格段に醒めていて頑なで、恋のひとつもしてこなかった私は、漠然と考えてたりしてね



自分に恋愛経験がなくても、ひとの恋ののろけ話を聞くのは大好き


それは、カレシやダンナに限らず、いいんだよ、憧れのひとの話だって。


のろけるのも、のろけられるのも、大好きっ


その代わり、どんなに親しくてもカレシやダンナの愚痴なんざ聞くのは大嫌い


恋愛がらみの「相談」は、ただの愚痴になる。


個々の事情は違っても、私に何ができる?



そもそも他人の色恋に興味ないし、恋愛がらみのゴタゴタなんて、はっきり言ってウザいだけ(笑)


オトナなんだし、当人どうしでよろしくやっといてよ、と


しょうがないんだからもう〜、と言いつつ惚れてるな、慈しんでるな、というのが透けて見えればいいけど、その関係に本当に疲れていたり、別れようか悩んでいる、みたいなことを聞かされても、こっちはどうしようもないもんね。




振り回されようと束縛されようと困らされようと、それでも愛しいなら、諸々万障ひっくるめて私はあなたが大好きだ! と笑い飛ばしてみせなよ、と。


ため息ついて、他人に本気で愚痴るくらい疲れてるなら、別れちゃいなよ、せめてやせ我慢でも黙って距離をおいて、自分の気持ち確かめてみればいいじゃん、と。



そう思ってしまうもの。

そう言ってしまうのは、薄情?



そりゃ、付き合ってた相手がストーカー化して怖いとか、あるいはこういう病気になってどう看護していいかわからない、とかいうようなことなら、自分の経験のみならず、持ち前の行動力も情報収集力も友人知人の知恵もフル稼働して力になろうとするけどさ。



ホレタハレタ、くっついた離れた、連絡があるのないの、ほかのオンナの影が云々、そんなことは当人どうしでやっとくれ(笑)



だって人生は短い。ひとの命は、誰でも、若くても老いてても持病があってもなくても、いつどうなるかわかりゃしない。


ひとと関わり合うことはとても大きなエネルギーが要る。


プラスの意味でもマイナスの意味でも。





ひとと本気で関わるということは、大げさじゃなく「命がけの行動」だと、私は思う。


そこまでできる相手じゃないと思うのなら、自ら距離をおくしかない。




それにしても、まぁね〜、言葉ってのは難しい。


面と向かっていても難しいけど、メールだと尚更。




表面的に優しけりゃいい、ってもんでもないしね。




バカヤローッ!! という怒声がこれ以上ないほどの深い愛情にあふれている場合だってあるだろうし、逆に、大丈夫? 大変ね、無理しないでね、何でも言ってね・・・なんていう優しげな言葉に、血の涙が滲むほど心を抉られて、もうお前なんかに二度と何も話すものか、という気持ちになってしまうことだってある。




「猫姫は、私はこう思う、私はそれは好きじゃない、私はこういうひとが好き、私にはできない、って『私』を主語にして話すよね、いつも。普通は・・・とか、女ってさぁ・・・みたいな一般論じゃなくて。だから信頼できるんだわ」




年上の女友達に、そう言われたことがある。




「私は、私は、ってやたら言うひとは我が強くて頑固だと思われがちだけど、違うんだね。私はこう思う、これは私個人の考え方だけど、あなたはどうなの、あぁ、違うんだねぇ、って感じじゃない、猫姫は? 違ってるからおかしいとか、そんなのはダメだよとか、言わないもんね」




面白いひとだよねぇ、と彼女はしみじみと言った。


・・・面白いひと・・・、これはわりとよく言われる(笑)


面白くしようと奇をてらっているわけじゃなく、そんな器用さもないし、本人はいたって真面目だったりするんだけどね



母のせい、もとい、おかげかもしれない。


優等生育ちの因果か、自分と違う好みや考え方をなかなか認められないひとだった。


どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、ただ単に「違う」、それのどこが不都合なのさ?


と、それこそ何度も何度も同じようなことで衝突した。




ある時、はっきり言った。




「私を、母さんと同じに染めようとしないで。私は母さんと同じ考え方をして、母さんと同じようにだけはなりたくないの。幸せになれる気がしないもの!」




いやはや、はっきり言いすぎだし(笑)


でも、母はその時納得していた。娘が自分に反発する理由を、初めて納得して、安心したような表情さえ浮かべていた。




友達、恋人、夫婦、親子、家族、師弟、男、女、あるいは共有する秘密・・・・・・、誰とどういう関係を結んでも、その関係に喜んでいても苦しんでいても酔っていても、それぞれの人生。


自分が幸せでありたいのと同様に、近しいあなたたちにも、やっぱり幸せでいてもらいたい。



そのひとを本当に愛しく思っているなら、誰に何と言われようが、凛と立って微笑んでいればいい。


それが、相手と自分にとって幸せだと思えるなら。


もちろん、誰かの幸せを奪うのと引換えでさえなければ、だけど(笑)




幸せになれない人間関係なら、自分の意思で手放すのもありだ。


手放して、少し遠くから、そのひとの幸せを願ってあげればいい。


一度は愛したひとなら。




“ ほかの誰にも言えない 本当のこと

  あなたよ あなたよ 幸せになれ

  あなたよ あなたよ 幸せになれ ”


       (ザ・ブルーハーツ『ラブレター』)





愛してくれるひと以上に、愛するひとがいてくれることに、感謝。

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