彼女は銀座のホステスなのだから、彼女自身に食べたいものを自由に選べるお金はあっただろう。客にもてなされて、プレゼントされたり 食事をしたりもしていただろう。僕の部屋にいただきものらしいブランド品が、箱に入ったまま放ってあるのも度々だった。けれど、きっと彼女は幸せではなかった。彼女の耳に入るのは自慢話やパンツを脱がす算段ばかりで、気持ちのこもった会話はなかったのだろう。だから、なにもない僕のところに来て、羽根を休めて、またどこかに飛んでいくのだった。
明日の夢と自由があれば、他になにもいらない青い男。
追えば哀しいとわかっていながら、享楽的な人生をやめられない女。
お金にしても、理想にしても、向かうべきプライオリティーを決めることは、覚悟のいることだった。いまにして思えば、危ういふたりが、まるで種類の違う見栄と虚栄心の傷口をみせあっていた。
「ぞぞ。ぞぞー」
彼女がたべるお茶漬けの音。望みさえすれば、コンビニにいって1万円の買い物ができる彼女は、お茶漬けを食べる姿に哀しさが滲む人だった。けれど、僕が足りないものを補って、幸せにしてやるとは思えなかった。消費がなければ幸せが証明できない人。それでは行き詰まることが明らかだから。
満ち足りない空間に、天から降りてくる蜘蛛の糸。引き上げられる先は享楽的な人生か、幸福の探究か。
幸せじゃない人は、お茶漬けを哀しくさせる。
その夜、僕は中空に浮いたようなぼんやりした感覚の中でそう思った。
どこか寂しい人は、過剰な洋服や豪華なクルマや整った空間といった、消費社会が作った優雅の中に身を置かなければ幸せにみえない。
目の前の出来事を楽しくするか、切なくするかは、その人の魅力そのものだ。言い換えるなら、その人が幸せで、自分が好きであれば、すべての事象を飲み込んでいく。
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>住むところ、食べるものがある、それに健康!これだけで十分かもって。
同感です
とても裕福に見える人。もし外見でそう見えるなら、それがその人の生き様で、内面そのものだと思います。人間関係は共感することですから「裕福そうに振舞う」ということを回避して付き合うのは難しい。
2、3日前、88歳の誕生日を迎えたおばあちゃんが、倹約を重ねて作った10億円を寄付したニュースが流れました。タクシーにも乗らず、外食すら一度もしたことがないそうです。彼女はきっと、外見からは億万長者の裕福さには見えなかったでしょう。それが生き様というもので、おばあちゃんの内面そのものです。
おばあちゃんの真似はとてもできませんけどね。