故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていました(洋学教育発祥の地)。
そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていました。
今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています。
その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。
T 昨日(10/27)の聖書/箴言8・1,22〜31 黙示録21・1〜4,22〜27 マタイ10・28〜33
U 要旨/創造/「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」(詩編8・2)
宇宙という極大のものから、電子顕微鏡で観察するような極小のものまで、世界は見事な秩序の中にある。西洋で自然科学の発達を促したひとつの要因は、このような驚くべき自然現象の背後に存在する創造主なる神を探求しようとした人々の信仰にあった。
神は天地創造の主であり、その創造においては神の「知恵」が共にあった。創造の主は善い方であり、創造の知恵も善い力。故に、この世は、本来、善いものなのだ。イエスと交わる者の世界観や人生観の根底に据えられる。
この世の現実、日々の生活に目を転じると、そこにはむしろ悪い力に満ち、悪いものが支配しているかのようにも見える。繰り返し生じる悲惨と苦しみ、破壊と歪み、悪こそが世界の本質のようにも思われる。
しかし、イエスと交わる者にとって、最初に創造された世界は善いものであり、悪いものではない。最後に来るべきものも善いものであって、悪いものではない。終末において「新しい天と新しい地」(黙示録21・1)を創造される方は、最初の天と地を創造された方であり、善い力に満ちた方である。
この天地創造の見方こそ、しっかりとそこに立ち続け、繰り返し立ち帰らなければならない土台となる。
人間は、この最初と最後のはざまで「中間時」を生きている。この世の現実がいかに悲惨で未来に希望がないように思われるときでも、この善い方の導きを信じて、与えられたこの時代を生きる。
新しい教会暦が今日から始まる、このような原点をしっかりと確認したい。
V 教会の暦では、10/28は 降誕前第9主日(A年)。
帰りに、いつものスーパーで、柿、リンゴ、葡萄などを求めた。
いつも求める孫の好きな「富津ロール」は、品切れのことが
多いので、前日、鎌取の「晴れの日」で「心ロール」を入手済み。