◆郷土の歴史文化掘り起こし隊
故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。
今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。
その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。
◆聖書勉強会報告
T 今日(04/18)の聖書/イザヤ51・1〜6 Iコリント15・50〜58 ルカ24・36〜43
■ルカ24・36〜43 ◇弟子たちに現れる
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
U 要旨/復活顕現
▼ エルサレムで弟子たちが集まっていると、復活のイエスが姿を現された。しかし弟子たちは亡霊だと思い、怖くなってしまった。
イエスを裏切った弟子たちであったから、イエスが亡霊となって呪いに来られたと思ってしまったからだろう。
そこでイエスは、御自分の手足を見せられた。釘による傷跡が見えた。
さらに弟子たちの前で焼いた魚をお召し上がりになった。健康な体でないと、食べることはできない。
つまり御自分が亡霊のようなものではなく、本当に復活したことを、お示しになるのであった。
完全な体での復活は、弟子たちの罪を完全に赦されたことのしるしでもあった。今、まで弟子たちは、いつもイエスと一緒に生活し、食事を共にしてきた。
愛に結ばれた交わりであった。愛する者との食事は楽しい。しかし、ユダが裏切ったことで、イエスが捕らえられ、他の者もイエスを見捨てて逃げてしまった。
そのようにして弟子たちが皆逃げ去った結果、イエスは十字架で殺された。このことによって、イエスと弟子たちとの交わりは断たれ、楽しい食事は中断されたのだ。
復活のイエスを見ても、亡霊ではないかと弟子たちが疑ったのは、自分たちの犯した罪は取り消せない、赦されないという思いがあったからではないか。
そこでイエスは、完全な姿であることを示そうとして、手も足も見せてくださり、さらに、「焼いた魚」を食べて見せてくださった。
むしゃむしゃと食べる様子は、聖なる神の子というよりも、実に人間らしい仕草だ。生きた人間らしい姿だ。そのようにしてイエスは、完全な体で復活したことを示し、弟子たちを完全に赦したことを示されたのだ。.;
イエスと弟子たちの食事は再開された。イエスが弟子たちを愛し続けておられ、彼らの裏切りを赦してくださった。それを示すためにも復活して、弟子たちの前においでになったのだ。:
やがてイエスが天に昇られ、お姿が見えなくなった後も、弟子たちはイエスとの食事を聖餐を行いながら守り続ける。
私たちも聖餐を行うことで、イエスが私たちの罪を完全に赦してくださったこと、そして今も私たちと愛の交わりを続けていてくださることを信じたい。
▼イエスの復活を肉体の復活として理解するのか、それとも霊による復活として理解するのかということは、初期キリスト教会の中でも議論になっていた。
ルカには、自分の目の前に現れたイエスを「霊」として理解しようとする弟子たちと、それに対してご自分の体を触らせたり、彼らの前で焼魚を食べたりして、「肉体」を強調しようとするイエスが対比的に描かれている。
イエスの弟子たちがなかなかイエスの肉体を伴った復活を理解できない背景には、ギリシャ的な考えがある。
つまり霊魂と肉体は別々のものであり、霊魂が肉体という牢獄から解放されることが救いだという考えです。
確かに肉体は、老い、病、苦しみ、欲望そして死に支配されている。人間はこの世的な思い煩いから解放されることに憧れる。
またそういう思いに囚われないことを信仰者の理想的な姿として考える場合もあるし、こういう思い煩いからの解放を神に願うことに宗教の目的を見いだしていることもある。
しかし、イエスの復活は、肉体と霊が分けられるものではなく、イエス全体の復活です。肉体はもはや霊魂の牢獄.ではなく、復活を経験する場となった。
そして、そのイエスは弟子たちにイエスの体に触れるように促す。イエスは、わたしたちがイエスの肉体を通して神に触れることへと招いている。
それは精神や霊魂で神を経験したり、死後において神と出会うことではなく、肉体によって悩まされ、それによって魂も曇り、またその逆に肉体も魂も喜びを感じるわたしたちを、そのままで神を経験することへと招いてくださっている。
そこには、交わりがあります。食事をするということは、まさにいのちを象徴する交わりです。復活の主との出会いは霊と体の一致、人間と神との交わり、人と人との交わりをもたらしてくれる。
V 教会の暦 明日(04/19)は C年 復活節第3主日
W その他
お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。
いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。
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