◆郷土の歴史文化掘り起こし隊
故郷にあった藩校(小久保藩盈進館)では、県内で最も早く洋学を教えていた(房総洋学 教育発祥の地)。そのせいか、国内でも屈指の教会が1900年(明治33年)に造られていた。
今、その藩校の資料館を創り、教会を復興し、由緒ある神社、有名なお寺などと共に街おこしに繋げようと、「郷土の歴史文化掘り起こし隊」(毎月第2土曜))を立ちあげ、頑張っています(詳しくは、「自己紹介」欄、「歴史文化掘り起こし隊(アーカイブ)」を。)。
その流れの中で、仲間の1人と、その他の土曜日に聖書の勉強会を始めています。
◆聖書勉強会報告
T 今日(04/25)の聖書/出エジプト16・4〜16 1コリント8・1〜13 ヨハネ6・34〜40
■ヨハネ6・34〜40 ◆イエスは命のパン
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
U 要旨/命のパン
▼ 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(ヨハネ6・34)と、群衆がイエスに願った。イエスが「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」といったからである。
かつてモーセが率いるイスラエルの民は、天からのパンであるマンナを与えられたことで、40年の荒れ野の旅においても、飢えることなく養われ導かれた。
イエスも5000人の群衆に、パンと魚を与え、満腹になさったので、群衆はこの方こそ申命記18・15で予言されていた来るべきモーセのような預言者にちがいないと期待した。
しかし、群衆が求めていたものは、イエス御自身ではなかった。 5000人に食事を与えるほどの力があれば、ユダヤをローマから解放してくれる。
ローマから解放されたら、ユダヤ人は異教徒の支配から自由になり、生活も楽になることだろう。そして食べる心配などもしなくてよくなるだろう。群衆は、それこそが神の救いであり、人間の幸福であると思っていた。
私たちも、生活の中でいちばん気に掛けているのは、食べることである。また食べるためにお金を得ようと必死になる。それが満たされていれば、幸福に生きられるかのように思ってしまう。
しかし、そういうことで人間は幸福になることはできない。いくらパンを食べて満腹しても、一時的なことであって、また飢えてくるように、命そのものを完全に満たすことはできないのだ。
飢え渇きをなくすことができるパンは、命そのものを満たす「命のパン」なのである。
イエスは「わたしが命のパンである」といった。空腹を満たすためのパンではなく、命のパンが必要であるということだ。
またイエスが命のパンを調達してくださる方だということではなく、強い調子で御自分自身こそが「命のパン」であることを指し示されるのである。
命が永遠に守られるためには、神との和解が必要なのである。罪を犯した人間がいかにして神と和解することができるか、それは十字架におけるイエスの贖いによるほかはない。
私たちは、イエスによって罪赦され、神と和解し、祝福を受けて永遠の命に生きることができるようになる。 イエスは、十字架の死の後、三日目に復活された。命のパンであるイエスは、私たちにも復活の命を与えてくださる。
V 教会の暦 明日(04/26)は C年 復活節第4主日
W その他
お昼は、いつものように、富津イオンにあるスタバで摂った。
帰りに、久しぶりに、小さいころお祭りで遊んだ神社の前を通ってみた。
神社の名称をどうしても思い出せないので、隣接する阿弥陀寺へ詣でていた方に聞いてみた。その人も知らないという。確か、坂田神社だと思うが ? 。
いつも乍ら館山道は往路復路ともに順調だった。
|
グッドスルー |
6つのサポート成分で毎日すっきり! |