若い頃から1日1章1年分を書いたテキストを用いて、朝晩黙想をしてきました。
カール・ヒルティの「眠られぬ夜のために」上下2巻(自己紹介欄参照)、内村鑑三「一日一生」、「
ローズンゲン」、「日ごとの糧」などです。
今は、C.H.スポルジョンとオズワルド・チェンバーズの著書を用いています。自己紹介欄参照。
【黙想51】
■ 起きて、食べなさい。(I列王19:5)
御使いはエリヤに、ビジョンを与えたり、みことばを説き明かしたり、何か特別のことをしたのではない。もっともありふれたこと、すなわち、起き上がって食べることを命じただけである。
一度も失意に悩んだことがないと言うなら、その人は生きていないことになる。人間は失望するものである。そうでなけれぼ、その反対の高揚の能力もあり得ない。
この世には、私たちを失意に追いやる、死の性質をおびたものがある。自らを評価する時、私たちは自分が失望する可能性を持った人間だということをつねに考えるべきである。
神の御霊が臨まれる時、御霊は私たちに、ビジョンを与えるのではなく、もっともありふれたことをするようにと言われる。失意は、神が創造された普通の平凡な事柄から、私たちの目をそむけさせる。
しかし、神が臨まれる時、もっとも自然で単純なことをするように導かれるのである。それは、今までそこに神がおられるなどと考えたこともないことかもしれないが、それを行う時、私たちはそこにおられる神を見出す。
このようにして私たちにもたらされる神の霊感は、失意に対して主導権をとる。神からの力を受けて、次のステップを踏み出すからである。
もし、失意に打ち勝とうとして何かをするなら、失意はいっそう深まる。しかし、御霊に促されて事を行うなら、失意は姿を消し去る。立ち上がって従う時、私たちはいっそう高い次元に移されるのである。(オズワルド・チェンバーズ/自己紹介欄参照)。
■列王記上 ◆ホレブに向かったエリヤ
19:1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
19:2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:3 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
19:4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
19:5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
|
さえざえ |
複合的に働く6つの成分で冴えをサポート |