転々と晒される岩、好き勝手伸びる木々、荒野。この光景を目にするのは、昨日に引き続き2度目だ。
2人と1匹は街を出て、例の靄のような壁を背にして立っている。
颯輝の古い記憶では、目的地である大聖堂は確かここより北にあった。
短くない旅路、幼い妹を連れての道は、肉体は言うまでもなく、精神的にも決して楽ではなかった。
あの時、全てが変わってしまったのだ。
「北を目指しつつ、まずは隣町のリージアに行こう」
北斗の提案に、颯輝は少し考え頷いた。
リージア、そう遠くはない商業に栄えた街。
「必要物資と…もしかしたら神話についての情報も集められるかもしれない」
「だな。確かでーっかい街だったなぁ。相変わらずなんだ?」
「そうだ。人の集まるところには情報も集まる。ここから徒歩で行けなくもないが…運が良ければ輸送用の車に乗ろう」
道無き道、と思っていたが、街同士の貿易はなかなか頻繁に行われているらしい。足元から伸びる轍の跡は、遥か遠くまで続いている。
全く見知らぬ世界という訳ではない。その事が、今の颯輝には大きな救いだ。
「な、さっき抜けた街を包んでるみたいなアレは誰がどうやって考えたんだ?」
歩みを止めぬまま少し後方に目を遣って、北斗の顔を伺う。彼は、あぁと一言呟き颯輝と同じように後ろを見た。
白い壁は、地面に這う雲のように、その実体を隠し続けている。
「数年前、街の術に優れた奴らが集められて共同で結界を張ったんだ。近くでよく見ると、陣が描かれてる」
陣?颯輝は魔法に疎い。全く気づかなかった。
「ふーん…。アレ、やっぱ魔物避けなんだろ?」
「そうだ。魔物は街がそこにあることも気付かず、さらに侵入も許さない仕組みになってる。
もし結界を無理に破ったとしても、その瞬間術師が気付く」
「すげー!」
颯輝は身を乗り出した。大星も確か、優れた魔法の使い手であったようだが、使っている場面を見る事はあっても、
詳しい話は一切聞いた事がなかった。術にも様々な使い方もあるのだろう。
「んー術師ってば、北斗も魔法使えるんだろ?もしかして、北斗が結界張った人々の一員だったりして」
颯輝は軽いステップを踏みながら友人の肩に手を置いた。
された本人はただ呆れたように息を吐いたが、払いのける事もせずに歩みを進めている。
「あんた、さっきから勘違いしてるみたいだけど、俺は、」
冷たい風が吹いたのと、2人が振り向き、マックスが駆けたのは同時だった。
「………!!」
会話は完全に中断され、颯輝は咄嗟に北斗の肩を突き飛ばす形で自分と彼の身を守った。
羽音を響かせ、醜悪な姿は見るに耐えない。
対峙した敵の片眼は、斬り裂かれたように潰れていて、それは新しい傷のようだ。
先ほどの攻撃は尾から繰り出されたものだ。耳元で空気を切り裂く音は、僅かでも遅れたらその攻撃を受ける所だった証明だ。骨の何本かが犠牲になったかもしれない。
「早速のお出ましか」
尻もちをついた北斗が体制を立て直し、身構える。先制攻撃をすんでのところでかわした2人に傷はない。
正面を見据えた時、颯輝は気が付いた。敵は目と羽の一枚に傷を負っている。
「昨日のやつだ…」
「え?」
「昨日倒したと思ってたやつ!」
敵が猛り、口元の大気がが歪み始めた。
攪乱するマックスの動きを直感的に把握し、颯輝は持ち前の速さを生かして敵の懐に足元から滑り込んだ。
地面に手を付き、跳ね起きの要領で敵の喉元を狙うが、横っ面に蹴りを入れる程度に止まってしまった。しかし、それでも魔物の口から吐かれた炎は標的から逸れ、地の草の一部を消し炭と変えた。
敵との間合いを置くためその場から一時退くと、颯輝は北斗の横に付いた。彼は荷物探り、薄い書籍のようなものを取り出す。
「北斗、平気か!?」
「俺は何もしとらんぞ。あんたこそ」
動物のように顔を振り、頭に乗った砂埃を払いのけ颯輝は笑って見せた。今のところ、無傷。
「マックス」
小さな体はしっかりと魔物の動きを捉え、最小限の動きで攻撃を避けている。魔物に感情などあるのだろうか。
残された目はマックスの黄色と黒の模様しか映らず、執拗に攻撃を繰り出している。小さな彼の動きに鈍りはないが、いつまでも魔物の攻撃をかわし続ければ消耗は激しく、確実に不利だろう。
「あいつ倒さなきゃ…援護よろしく!」
颯輝は再び駆け出し、北斗はページをめくる。 マックスが咆哮し、守りに徹していた体制を翻し、地面を蹴った。
「こっちだ!!」
マックスの動きに気を取られていた魔物は、突然現れた颯輝に躊躇した。
その瞬間マックスは羽の一部に食らいつき、颯輝は敵の左頬辺りに掌打を繰り出す。相変わらず硬い皮膚だ。
敵の動きは一時鈍り後退するものの、羽に張り付くマックスを振り払い、足摺りをして唸った。間髪を置かず颯輝は一歩踏み出す。目と目の間はどの生物においても弱点だ。真っ直ぐに繰り出す拳は敵の動きよりも早く捉える。
しかし。
「颯輝!」
たまらず北斗が叫んだ。
敵は、颯輝が予想していたよりもずっと速く颯輝の動きを察知し、そして牙を剥いた。攻撃の手を止めた颯輝の右腕から赤い血が滴る。
「ちっきしょ…」
感覚が麻痺しているのだろうか。滲み出てくる血液は鮮やかではあるが、痛みはあまりない。
致命傷では無いが、これで確実にこのバトルが厳しいものとなった。傷口が、ただ熱い。
途端、マックスの警告のような声がした。慌てて顔を上げると、この間合いを一瞬で詰めた魔物の顔がそこにあった。
「な…!!」
転がるように横に飛び退くが、敵の攻撃の手が早い。
颯輝も素早く立ち上がるも、この距離では連続した攻撃を見極めてかわすことが精一杯だ。その間にも爪が彼の肌を掠め、小さな傷を作り続けている。一度目のバトルに激昂したのだろうか。比にならない強さに、颯輝は倦ねていた。―――武器が欲しい。
守りに徹する颯輝の視界に、今まさに飛びかかろうとするマックスの姿が映った。
瞬間、魔物の負傷している目に拳を叩き込むが、直後、腹部に重い衝撃が走り、着地もままならず後ろに吹っ飛んだ。
うまく呼吸ができない。太い鞭のような尾に、マックスの体も弾かれたのが見えた。
こちらを向き直る敵の目の色が、更に暗黒に濁った気がした。羽を大きく広げ、空気が歪む。
あの、地面を抉る攻撃がくる。颯輝は地面を踏みしめ、食いしばった。
「弾けろ!!」
しかし、覚悟とは裏腹に大気に響いたのは、後ろで控えていた北斗の声だった。その瞬間、バチバチと音の軌跡が走り、敵の顔面で衝撃音が唸る。
振り返り北斗の顔を見ると、息を切らし、彼自身驚いたような表情を浮かべている。
敵に真っ直ぐ向かっていた右手を静かに下ろし、颯輝を見た。
しかし2人の視線はすぐに断ち切られる。砂煙に巻かれた魔物の地を踏みしめる音が聞こえたのだ。
「まだやんのかよ…」
ゆっくりと前進し姿を現す魔物に、颯輝は右手を庇いながらも身構えた。背中に冷たい汗が伝う。次はどう来るか。
北斗は凄まじい勢いでまたページを探す。マックスの毛並みにも血が滲んでいるが、その足取りはしっかりしている。
怒りの咆哮。一つしかない目で、颯輝を強く睨みつける。
まだ旅は始まったばかりだ。
颯輝は一笑した。
一気に間合いが詰まる。
速さが一つの武器である颯輝と、空気を切り裂く羽をもつ魔物が、互いに向かって駆け出した。駆ける速さはそのままに、魔物は体を捻って颯輝を殴打しようとするが、颯輝もまたスピードに乗った跳躍によってそれをかわした。
勢いがついまま回転した敵の真後ろに着地すると、すぐさま颯輝は魔物の羽を絡めとり、その関節とは逆の方向へ全身を使って折り曲げた。
魔物の声がつんざく。
北斗は詠唱し続け、マックスは敵の喉元に食らいている。
魔物は頭を振ってマックスを引き剥がすと、一際大きな雄叫びとともに颯輝に向き直った。
魔物の感情が読める。怒りだ。
口元から炎が吐かれる。横転してそれをかわし、見上げた直後。
魔物の牙が僅かすぐそこにあった。
―――間に合わない!!
絶体絶命の友を見つめ、北斗が早口に詠唱を終えるまさにその時だった。
汗の滲む自分の手に、別の何かが触れる感覚があった。
「キミ、それじゃあだめだよ」
振り返るより、早く。
真っ黒い影が自分を覆う。
もうだめだ、と考えるよりも、太陽を背負う魔物の黒さと眩しい空のコントラストが苦しかった。それでも鍛えられた体はどこからか警鐘を発して、体制を立て直そうとしている。
牙が来る。
それでも颯輝は目を閉じなかった。
閉じなかったから、その様子が良く見えたのだと思う。視界の奥、自分に襲いかかる魔物の更に後方。
魔物よりも空に近く太陽の光を背負った影。高く高く飛んでいる。
すると突然、手前の魔物の顔に横から透明な何かが突き刺さり、ほぼ同時に、魔物にかかる影が棒のようなものを直角に突き刺した。
あの硬い皮膚が嘘のようだった。
魔物が地に落ちる。
颯輝の下半身がその体躯の下敷きになったようだが、手をついて体を起こそうとしている。どうやら無事らしい。
その事を確認すると、北斗は振り向いた。
「…何者だ」
顔に描かれている紋様は、この世界では商人を表す。彼女の絵柄は渦巻き。まだ幼さが残るその頬は、満足そうに口角が上がったままだ。
自分は先程と同じ魔法を唱えていた。しかし彼女が触れた瞬間、体に集めた魔の力は瞬時に変換され、鋭利な氷の矢になって敵に突き刺さった。
敵に一矢報いたあの最初の魔法でさえ、能力の低い自分には奇跡のようなものだったというのに。
少女は小首を傾げ、微笑んだままだ。
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