何かと凹むことが多い毎日ですが・・・
「美」と「幸せ」を追い求めて日々頑張っております。
休みがちな今日この頃・・・
気が向くままに書き綴りたいと思っています。
読んでくださってありがとうございます。

2009年09月  >
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
カテゴリアーカイブ
最新記事
不妊の終わり [2007年12月23日(日)]
 不妊治療の追憶を記し始めて1年くらい経ってしまいました。

今更書くのか?という気持ちと、

私の人生には欠かせないエピソードでもあるわけで・・・

ということで、最後までお付き合いください

流産の処置が終わり、しばらく実家でお世話になりました。

毎日痛みと不安で泣いてばかりいて、

10月に流産したのに、翌年の2月まで一人で外出できずにいました。

来る日も来る日もアパートに閉じこもって

朝から夜お風呂に入るまで顔も洗わない日もありました。

友達からの連絡にも出ずせずで、ひきこもっていました。

どうしても外出しなければならない日は、

出かける前に何度も吐いて、ある意味気合??みたいなものをいれて

出かけていました。(一人では無理だったので両親か夫とです)

ある日、夫の友人とイチゴ狩りに行く計画を勝手にたてられて

無理矢理出かけ、そのときに一回も吐くことがなく過ごせたことが

私の自信になってまた一人で出かけられるようになりました。

それから1年過ぎ、2年経とうとした頃、社会復帰できました。

当時夫は深夜便のトラックの運転手をしていたので、

夕方でかけて仕事が終わり次第戻るという生活で、

午前8時ころから午後2時ぐらいは寝ているので、

10時から13時まで酒屋さんで事務のバイトをし、

夕方16時〜深夜0時くらいまで求人情報誌の入力のバイトをして

過ごしていました。

入力のバイトは部活みたいでとっても楽しくて、

気がまぎれつつ、遊びつつ、お金を稼ぎつつ、

今考えると本当に楽しい時間でした。

働いてお金ができたので、新しい病院と、

新しい治療法を試してみようという気になって

整体のようなことをするところへ行ってみました。

そこの先生は「今年は妊娠は諦めて、しっかりとした体を作ろう」

そう仰いました。妊娠を諦める?目からうろこのアドバイス。

その時は9月でした。

3ヶ月は妊娠のことは全く考えずに過ごそうというのです。

私は頭が固いので気持ちの切り替えも出来ず、

病院に通うことは止められませんでした。(整体の先生は反対しましたが)

新しい病院で日ごと血液検査をして今まで不妊治療をしてきて

全くわからなかったことがわかりました。

私は高プロラクチン血症という病気で

卵が上手く育たなかったようです。

プロラクチンを抑える薬を飲みながら整体に通い、

病院でホルモン注射を一発打ってから仕事に行く。

そんな生活を2週間ほど続けて、

産婦人科の先生からも、整体の先生からも

「今月は諦めましょう」と言われていました。

妊娠を全く考えない日はなかったけれど・・・

夫との生活が上手くいかず、離婚の危機・・・

私的には妊娠どころの話じゃないくらい

根底のところでグラグラと揺れ動いていました。

何が原因か・・・もう忘れた。

たしか・・・流産のことが引き金になっていたように

記憶しています。

(私は流産当時うちにこもることをして夫に怒りをぶつけることも

何もしなかったと思いますなので、今更怒り爆発??)

私の荷物を殆どまとめて後は運び出すだけ・・・というときに

東京から友達が帰ってくることになって

しばらく友人と過ごしていました。

でも、あまりにも気分が悪いので結局自宅に戻って休んでいました。

もしや・・・そう、医師の診断を裏切り、

私は妊娠しちゃったんです。

妊娠しなかったら離婚していたかもしれないので、

神様は私たち夫婦を別れさせないためにもを授けたのかな・・・

などとどうしても運命めいたことを考えてしまいます。

子供がいなかったら・・・

そんな人生も考えないこともないけれど、

不妊の終わりは新たな人生のはじまりでした。

不妊のゴールは出産だと思いましたが、

不妊のゴールはなかったんです。

妊娠期間は不安と期待で決していいものではなかったけれど、

(妊娠を安定させるのに先生が頑張ってくれました)

が来てくれてよかった。

悲劇のヒロインを演じ、誰かを妬みひがみそんな人生だったかもしれない。

は神様からのご褒美だと思っています。

女の子が欲しい私に不妊治療を全くせずに授けてくれたのだから。

最後に・・・

プレママのみなさま。

お子さんを得られるために様々な努力をされていると思います。

でも、「妊娠すること」に縛られることなく

ご自身の生活を十分に楽しんで欲しいなと思います。

ママになったら100%自分の時間なんてなくなってしまうのだし・・・

でも、体は冷やさずに大事にしてくださいね。

一日も早くその手に赤ちゃんを抱くことができますように・・・

心からお祈りいたしております。

長々とお付き合い下さいまして

ありがとうございました







Posted at 21:31 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想F [2007年02月01日(木)]
 (前回のお話はこちら

 妊娠=ゴールと考えていた私は奈落のそこに落とされたような
絶望を感じていました。
不妊治療のゴールは「出産」だったのです。
なんて、長く厳しい道のりなんだろう・・・
どうしたらいいのかさっぱりわからず途方に暮れ・・・

 看護婦さんに車椅子に乗せられて
深夜の静まり返った病院内を診察室まで行きました。
「完全流産なので、手術は必要ありません。残念でした。
明日、朝食をとったら帰ってもいいですよ」と言われました。
当直の先生は私の主治医ではありませんでしたが、
寝ぼけ眼でも、優しくいたわるように話してくださいました。

 次の日、旦那が来て今度は夫婦で主治医から
話を聞くことになりました。
「赤ちゃんを見ますか?」と聞くので
「見てみたい?」と旦那に聞いたら、
「いや、やっぱり見ないほうがいいでしょう」と
どっちなんだよぉという主治医のよくわからない返答・・・
でも、先生のせいではないのに、
「私のいない間にこのようなことになってしまって申し訳ありませんでした」と
言われ、後から後から涙が流れてしまって、
その後のお話がよくわかりませんでした。
ただ、赤ちゃんを検査に出すことを了承くださいということだけは
聞こえてきました。

 病院から帰る車の中で、
私の妊娠を知っている人にメールで報告。
そして、妊娠を機に車を買い替えることになっていて、
その契約の日が退院の日だったので、
家にいったん戻ってシャワーを浴びてから、
車の販売店へ・・・
とても、家で一人で留守番していられなかったので
お腹がすごく痛かったけれど旦那と共に出かけました。

 乗る赤ちゃんがいなくなっちゃったのに、
車買うなんてバカみたいだな・・・
旦那は大きな車を買うためにバイクまで売ったのに・・・
と何ともいえない虚無感に襲われてどうしようもありませんでした。

 次の日歩けないほどお腹が痛く、
バファリンを飲んでもいいか病院へ
「赤ちゃんの組織が残っている可能性があるから、
もう一度、病院へ来てください」と言われ、
「主人もでかけましたし、車を運転出来るような状態じゃありません」と
いうと「救急車できてください」と言われびっくり
確かに、歩けないけど救急車を呼ぶほど緊急とは思えず、
旦那に電話して、仕事を抜けてきてもらいました。
4階からおんぶでおろして、あまりの激痛にまるまる私を
みてどんな気分だったんだろう・・・

 病院へつくと主治医が「なんだ救急車でこなかったの?」
なんて気の抜けた感じ。
「恥ずかしかったから」と答えると
「緊急なんだからいいんだよ」ですって。そんなもの?
「ご飯は最後はいつ食べたの?」
「13時頃です」と私。
「赤ちゃんの組織が残っているとお腹が痛いのが取れないから
これから手術しよう。痛くないから大丈夫だよ」と・・・
「先生、もう痛いのイヤです」と涙を流しながらいう私に
看護婦さんが
「大丈夫だよ。痛くしないようにしようね」と優しく手をにぎりながら
言ってくれました。
Posted at 23:00 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想E [2007年01月10日(水)]
 (前回のお話はこちら

 着の身着のまま入院することになってしまった私。
でも、ちょっとホッとしていました
「これで助かる〜」と。
続きを読む...
Posted at 22:00 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
捨てられないもの〜想D〜 [2007年01月09日(火)]
 毎日毎日、家の中のものをひっぱりだして、

「要る物」「要らない物」に分けて

「要らない物」をバンバンすてている今日この頃ですが、

捨てたほうがいいかもしれないのに、

捨てられないものがあります
続きを読む...
Posted at 10:02 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想C [2006年11月11日(土)]
 (前回のお話はこちらへ)

蛍光灯が煌々と光るすごく無機質な治療室で
少々の痛みを感じて「人工授精」終了。

人工授精と体外受精を混同して報道しているメディアが
ありますが、根本的に大きく違います。
人工授精はただ精子を注射器のようなもの
の中にいれ、子宮に入れるということ。
体外受精は、卵子を取り出して精子と受精させ、
その受精卵を子宮に戻すという治療。


ドクターからは「今回はあまり期待しないように」と
いわれ、帰宅。
期待しないようにといわれても・・・
いつもよりステップアップした治療だから
期待しますよ〜
でも、ここまでくると、がっかりするのが
怖いから悲しいかな期待をセーブするワザを
習得してるんです

 二週間ぐらいたって、いつもはすぐに下がってしまう
基礎体温。今回は違いました。何となくつらつらと
高温期を保っている
早速、妊娠検査薬を試してみようと買ってきても、
現実を知るのが怖くて、一日そのままに・・・
旦那は夜の仕事をしていたので、
昼間は寝ているので起きてから試してみようと思いました。
結局、旦那が起きる間際。試してみたら・・・
陽性
今思えば、頑張って頑張ってここまで来た割に
クールな自分自身の反応だったと思います。
とりあえず、旦那をたたき起こして、報告。
寝起きだったせいか、「あっそう・・よかったね」
という旦那もクールな反応・・・
でも、私は不安なので、とりあえず病院へ電話して
診てもらうことに。

 いつもはゲンナリして待っている待合室。
今日はウキウキ
散々待って診察室へ行くと〜
「確かに妊娠しているようですが、まだはっきり
わかりませんから、また一週間後に来てください」と
言われ、「おめでとう〜」もなにもありませんでした

Posted at 22:22 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想B [2006年11月07日(火)]
(前回のお話はこちらへ)
子供が欲しい人にとって、子供が出来ない現実は
筆舌に尽くしがたいものがあります

 代理母出産は、何らかの原因でどうしても自分で
産むことが出来ない方にとっては、「実子」を得る唯一の手段です。
ただ、「実子」の定義というのは血のつながりだけなのかな
とも思ったりもしますが・・・

 私にとって、治療3年目は岐路に立った年でもありました
鍼灸が良いと聞けば鍼灸に毎日のように通い
漢方が効くと聞けば漢方薬も飲む。
食事も、体を冷やさないようなものを中心に、
黒いものがいいとか、根菜がいいとか、
ざくろがいいとか、グレープフルーツジュースがいいとか
洗剤がよくないなら石けん成分のものにかえるとか
良いと言われているものは本当に
手当たり次第何でもやりました
 体の血流が悪いと卵の育ちや、子宮内膜が厚くならないというので
ヨガみたいなことを風呂上りにやってみたり、
自宅でお灸を施したり、
本当に死に物狂いだった気がします・・・

 それでも結果はだめ・・・だめ・・・だめ・・・だめ
専門学校が終了後、半年契約で働いていた公的な事務所も
更新はせず、治療に専念しようと決めました。

 仕事に行かないと、余計に子供のことを考えることが多くなり、
精神的にますます追い詰められた感も。
子供がいないだけで、なんら不自由がない生活。
映画をみたり、読書をしたり・・・自分なりの生活を楽しんで
いました
でも、結婚四年目なのに子供がいないということは
意外と本人達よりも、周りが騒がしくなるというか、
不自然に映ったのか、
「子供はまだなの早く生んだほうが楽よ〜」とか
悪気はなくても余計なお世話に、
抱かなくてもいい焦燥感を抱かせられたような気がして
なりませんでした
気にせず笑い飛ばせない私は段々人に会うのが億劫になって
いきました
友達の妊娠に涙したり(うれし涙ではなく、嫉妬で)
絶望したり。
(その後遺症か・・・未だ妊婦さんを見ると
胸がキュンとなります
続きを読む...
Posted at 23:12 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想A [2006年10月11日(水)]
 (前回のお話はこちらへ)
近所の産婦人科でクロミッドを飲んで・・・という
治療を約1年続けた頃、成果があるのかないのか
わからないし、治療を続けていいのかやめるべきかも
決められず、通院しなくなったら本当に妊娠が遠ざかる
という恐怖心みたいなものだけで病院に通っていました。

 その頃はまだ正社員で働いていて、
対人関係のストレスで具合が悪くなることも多かった職場を、
パートのおばさんの退職を期に私も退職する事にしました。
雇用保険をもらいながら、パソコンの職業訓練をするという
専門学校に入り、そこで知り合った人に不妊治療専門医を
紹介してもらって、本格的な不妊治療が始まりました。

 そこの先生は患者自身にも治療に対してとても深く勉強を
することを望みました。
先生はどう言ったら満足してくれるのか
常に勉強不足を指摘されてあまり相手にしてもらえませんでした。
二時間近く待って診察3分なんて事はざらで、
通院のたびに緊張して、突き放されたような気分になって
時には車の中で泣きながら帰ったりしました。

 タイミング療法をしながら、
子宮びらんをレーザーで焼いたり、
子宮卵管造影検査(気持ち悪くなる程痛かった
等々、不妊になりうる可能性を検査、検査・・・検査。
もちろん旦那の精子も・・・
(コレをお願いするときは人として本当に辛かった
でも、結局決定的な原因はつかめず・・・
無駄に月日が流れている感じがして仕方ありませんでした
Posted at 21:21 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
想@ [2006年10月07日(土)]
 私が産婦人科に通うきっかけになったのは
結婚半年後くらいにおこった激しい生理痛でした。

 もう、うなり声が出てしまうほど痛いときが時々あって
それを解消しようと病院へ出かけたのでした。
診断は特に異常は見当たらないので、数ヶ月通うように言われました。
その頃から基礎体温をつけることが日課になりました。

 まだ結婚1年目の新婚時代でしたが、
排卵誘発剤(クロミッド)を飲んで、
先生の指示に従って、夫婦生活を持つという生活でした。
タイミング療法という不妊治療になります。
早く子供が欲しいという意思のみで、ろくに検査もせず
ホルモン剤を飲むことになってしまった私・・・。
今思えば・・・
不妊を意識する前からもう不妊治療は始まっていました。

 妊娠は意識しないうちにできたらなぁ〜って
今でもそう思います。
どうして?なんで?と考えてしまえばしまうほど、
私にとっては難しく、偶然の産物だと思うから・・・

 人間は二足歩行をするので他の動物よりも
妊娠率が下がるそう。規則正しく排卵する人でも、
年12回程度のチャンスしかないって考えたら?
12回もって思えなかったら?
ストレスを受けただけで排卵しなかったとしたら・・・
1年のチャンスは12回以下になる・・・
そう思い出だしたらキリがなく・・・・・・
「不妊症」の暗示にかかってしまうのです。
悩めば悩むほど考えれば考えるほど妊娠が遠のく・・・
そして、自分でも永久に妊娠しないんじゃないかと
病院へ行けば行くほど思っていました。
でも、病院に通っていればそのうちできるよなぁ〜なんて
まだ心に余裕のあった一年目でした。

Posted at 22:07 | 不妊治療の追憶 | この記事のURL
プロフィール


おともだち

マイコレBOX
LOVE

http://www.dhcblog.com/kouho/index1_0.rdf
ログイン
Mypagetopに戻る