2020年05月  >
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
第2部を始める前に [2009年11月05日(木)]
P.62第5章 理論より

 私の理論は、ガンの一般的科学理論を意図したものではない。また自分の理論を他の理論や解釈と比較してみようとするつもりも、私には無い。医者が適切なガン治療を実施するうえでのガイドとして役立つことのみを目的としたものである

P.324
 ゲルソン研究所は1978年6月27日、法人組織として発足した。本書が出版されてから、20年後のことだった。
 ゲルソン研究所のスタッフは設立以来、本書に収録された50人の患者のうち、できるだけ多くの者のその後を追跡する努力を続けて来た。何しろ、患者は皆30年以上も前にゲルソン博士の療法を受けた人ばかりなので、消息がつかめる人とがいたとしても、そう多くつかめる見込みはなかった。50人のうち34人は、もしも生きて発見できるとしても、もう平均寿命を超える年齢になっているはずの人たちだった。
 しかし、努力の結果、ある程度の患者や家族の住んでいる場所が判った。そしてこのうちの10人は現在〈1989年〉、良好な健康状態で存命していることが確認できた。本書収録の治癒例1・5.7・11・12・13・14・18・35・38である〈日本語版へのゲルソン女史の文にあるとおり、1989年現在では12人の存命が確認されている。=日本語版編集部)。この他に4人−つまり治癒例23・28・41・42の患者は、もう亡くなっていたが老齢まで健康に生きて、自然な死に方をしていたことが確認できた。他の人たちに関しては、追跡してもつかめなかった。
 ゲルソン博士が治癒させた患者で、充分に記録が残っているけれど、本書では紹介されていない実例は多数ある。またゲルソン博士以外の医師たちの手で、ゲルソン療法により治療を受け、見事に治癒した例も我々は掴んでいる。
 ゲルソン研究所の目的は、現代医療の中にガンや慢性の退化病に対する第1義的対処法として、ゲルソン療法を組み込むことを促進することにある。だから我々は、ゲルソン博士の治療を受けた患者やゲルソン療法を実践している医師たちからの連絡を待っている。
 1986年〈原稿執筆〉現在では食事・栄養とガンの関連に疑問を持つ者はいなく〈少なく?)なっている。しかしながらガンの治療のための臨床栄養の役割は、現在のガンの権威たちの大多数も、まだ理解していない。ゲルソン博士の業績だけでは、研究者たちの世界に関心を呼び起こすには不充分である。
 もしも貴方が医師で、ガンその他の病気にゲルソン療法を利用しているのならば、どうぞゲルソン研究所と接触を持ってもらいたい。ゲルソン研究所は非営利団体であり、ゲルソン療法を活用しようとする医師たちに専門的なカウンセリングを喜んでするものである。的確な臨床記録を備えた臨床例は、懐疑的ながら無関心ではない医学の専門家たちを納得させるための我々の努力にとって、もっととも需要である。
 御連絡を歓迎する。御連絡は左〈下〉記へ〈ゲルソン研究所の現住所もここである=日本版編集部注1986年現在)

The Gerson Institute 
P.O.BOX 430
Bonita、CA92002,U.S.A.
TEL:(619)267−1150


 なお、関心のある医師にはどなたにでも、この第2部で紹介するどの症例についても、申し出があれば、元のX線写真や病院の記録をお見せ出来ることを付け加えておく。

  1986年2月3日                編者〈原著〉
症例1〉脳下垂体の腺腫 [2009年11月05日(木)]
■D.S.B婦人、44歳、既婚、2人の子持ち。
■臨床診断:脳下垂体に異常に大きな腫瘍。周囲の骨も部分的に破壊されていた。
■マウントサイナイ病院レポート(1943年6月)
 患者は1941年から42年にかけ両目の視野が次第になくなるのに気づいた。複視も起き2ヶ月続いた。右眼の側頭部の視野の減退が、1943年3月までには完全な半盲に進んだ。同年4月、残っていた右眼の視野の半分も狭くなって行くのに気づいた。6月の検査では、右眼の側頭部の視野も効かなくなっているのが判った。1942年11月以降、生理がなかった。42年から翌年までの間に15ポンド(約6キロ)体重が減った。
 入院時には両目の網膜の乳頭が軽度の蒼白を呈し、両目ともハッキリとは見えなくなっていた。両耳側が見えない半盲に加え、右目は鼻の下の方が見えない視野欠損(不完全な)だった。X線検査ではトルコ鞍が目立って肥大し、トルコ鞍の床状突起の壁が侵蝕されていた。
 患者は一連のX線治療で、視野の明瞭度は少しよくなったが、視野には改善がなかった。そして患者には他の医者を勧めた。そこで、また脳下垂体の腫瘍を切除するように勧められたが、患者は手術を拒否した。
■1944年3月ニューヨークのゴサム病院の私(ゲルソンのこと−訳者)の科での初診時の状況およびその後
 脳下垂体の色素嫌性腺腫。脳下垂体に異常に大きな腫瘍があり、トルコ鞍が大きく肥大。周囲の骨は部分的に破壊され、右目は失明。左眼も視神経の部分的欠損により、ほとんど破壊。
 患者は救急車で我々の病院へ運びこまれ、意識も失っていた。すぐに治療開始(全ての患者に対し治療はすぐに始める)。
 S.B婦人の親族の1人が、大量の果物と野菜のジュースを持って来た。小さじ1杯ずつ、日夜このジュースを患者に摂るようにさせた。同時に浣腸が繰り返し行なわれ、1週間後に完全に意識が回復した。2ヶ月目の終わりには気分もよくなり、自分で家事も出来るようになった。8ヶ月目には夫の秘書としての仕事が、再びやれるようになった。そして今も、その仕事の力を持ち続けている。左眼の網膜の機能は半分しかないが、読んだり書いたりに不自由はしていない。 
(付言)
 トルコ鞍は肥大していたが、これは私たちの病院の有能な放射線医が、「自分も他の者もこんなに肥大した例は観たことはまったく無いか、ほとんどないほどだ」と云うほどの肥大のままであった。
■1957年6月15日眼科医のレポート
 視力:役に立つ視野はなく、鼻の上部4分の1の部分に多少光を感じられる程度。
 左眼:角膜の感応は正常。共役偏奇運動は充分。眼筋に異常はなし。
 右眼:対抗反射なし(直接光)。右から左への同感性反射あり。左から右への同感性反射
   は引き出せず。直接の体躯反射は即時。
 眼圧:両眼とも0.18
 スリットランプ(細隙灯)検査:正常。ただ右眼に網状構造物あり。痕跡様の物で、意味不明。

 内部:右眼視神経乳頭に強度の視神経萎縮あり。全ての眼内血管が狭くなっている。
     左眼視神経乳頭に軽度の一過性の蝋のような蒼白あり(これは脳下垂体の腺腫に
    は典型的なものである)
 視野:右眼−鼻の上部4分の1に光覚能力あるかなしかの程度。
     左眼−歪んだ一時的な視野狭窄あり(これは私が8〜10年前に自ら起したものより
        もずっと小さい)。
 患者は健康状態もよく、労働能力も充分だった。
症例2〉左小橋角神経鞘腫 [2009年11月05日(木)]
■C.H氏、48歳、既婚、2人の子持ち
■臨床診断:左小橋角神経鞘腫
■生検レポートと手術(ニューヨークのフランス病院) 
 小脳橋角への通常のアプローチとして、左後頭部に小さい穴を開けた。
 1つの硬い腫瘍が聴神経孔のあたりにあった。普通のタイプの聴神経腫瘍ではなく、紡錘細胞肉腫により似ていた組織の大部分は切除した。骨の陥没が大きく目立った。生検による病理報告は、左小脳橋角の神経鞘腫だった。
■以前の病歴
 病気は1948年11月の終わり頃に、両脚の動きが悪くなり始め、脚が弱くなる症状でスタートした。この数ヶ月の間に状態はさらに悪くなり、舌にもトラブルが出て来た。舌を動かしたり話をするのも難しかった。左手も力が出なくなり、指も手も手首の関節も動かなかった。何日か、朝は普通に話せるのに、日中はだめになる、と言うことも起きた。  
 彼は酒も煙草もやらなかった。神経の検査では両目に眼振があり、舌も右に偏っていた。腱や皮膚の反射も正常ではなかった。1949年の初めには、症状は一層悪化、同年4月6日に手術が行われた。
■1944年5月23日ゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 私は同じ年の3月23日患者に1度会ったが、私が治療を始めたのは、手術の後の同じ年の5月23日だった。その時患者は、5,7,8番の各脳神経にトラブルがあり、小脳性の機能障害の症状を見せていた。左腕と左脚は痙攣と失調でコントロールできず、口の左端もだらりと下がっていた。腫瘍が完全に切除できなかったために、患者の妻は暗い見通しを告げられていた。
 1949年6月の末、患者は体のバランスがよくとれないながら杖を使って歩き始めた。7月末には左腕も動かせた。気分はある程度回復したが、体のコントロールは充分ではなかった。顔面の左半分の感覚が少しずつ戻った。同じ年の10月の終わりには、左腕と左手がもっと動くようになり、かつ力強くなった。舌と左の顔面の動きも、大いに回復した。 
 1950年11月、患者は自動車工場で働き始め、右目の視野も正常で、読み書きも不自由なしだった。左目は内側に寄り、複視を避けるために黒眼鏡で覆っていた。1950年の終わり頃には、手術跡のあたりにあった脳腫瘍の膨隆は、触知できなくなった。
 その後、何年か患者は時計職人として働き、車やラジオ、その他のものの修理もした。左腕と左脚は少し弱く、左脚は攣縮や筋肉の動きに不自由さがあった。私は彼を1957年に最後に診た。
■X線検査レポート
 口の左側の下神経節上方の部分が、部分的に破壊され、トルコ鞍は全部が肥大、前後の壁は薄くなり、後ろの壁は一部が破壊されていた。前と下の壁はいまはまだしっかりしていて、後ろの壁は前のままだった。
 錐体の突起には基本的な変化はなかった。最後のX線検査レポートでは、口の左の下神経節の前上方の部分は、ほとんど元に戻っていた。副鼻洞には空気が入っていた。
■眼科専門医のレポート
1957年7月5日。左目の外直筋は完全に麻痺。左の角膜に麻痺があり、まぶたを閉じる手術を勧めた。
視野:右目−20/40
   左目20/300。瞳孔反応あり。乳頭は健康な色をしているが、左目の乳頭は少し曇っ
            ている。
症例3〉神経線維腫と脳腫瘍 [2009年11月06日(金)]
■M.K嬢、17歳半、未婚。
■臨床診断:増殖が早く、肉腫タイプの転移の多い神経線維腫。また脳腫瘍もあり、このた
       め左半身が麻痺。

■生検および手術 
1)1941年2月、手術で鼻の下部の腫瘍を切除。
2)1943年3月、再発の腫瘍を手術で切除。
3)1945年6月、再び再発腫瘍を切除。
4)1949年6月、前頭部と頭頂部から、1つずつ計2つの腫瘍を切除。
5)1959年2月、ジャガイモ大の、大きな腫瘍を肺の中葉と共に切除。母親は「心膜の周辺
 もやられているので見通しは暗いと」と告げられた。
■インディアナ大学医療センターのレポート
 病患者は1943年3月6日、最初にジェームズ・ホワイトム・リレイ病院に入院した。「上唇が腫れる」と訴えていた。上唇は2歳の頃から少しずつ大きくなってきていたのだった。過去にガンはなく、また家族にもガン患者はいなかった。
 検査では上唇を取り囲んで、軟らかい腫瘍があるのが判った。以前にこれを切除しようとしたための傷跡もあった。知能検査ではIQは112だった。
 1949年3月9日、腫瘍を切除。この手術でその下の骨に圧迫萎縮が広く拡がっているのが発見された。組織病理学的診断では、唇の叢(そう)状神経繊維腫で、レックリングハウゼン病タイプの病状は認められなかった。手術後の経過はよく、同じ月の18日に退院した。
外来患者として6ヶ月ごとに診断を受けていたが、1945年2月までは腫瘍の再発はなかった。しかし腫瘍は大きくなり続け、同年6月25日再入院。同年29日に、手術で可能な限り腫瘍を切除した。
 組織病理学の報告は「増殖が速く多分、肉腫になって行く神経線維腫」だと述べている。翌月の8日に、「1ヵ月後に来院して診断を受けよ」という指示を受けて退院。しかし、1ヵ月後に患者は来なかった。
■インディアナ州エバンズビルのボーン肺結核病院の肺手術レポート
 胸腔に、小麦色の澄んだ胸水を少量認めた。腫瘍は容易に発見できるもので、胸膜の下にあって腫瘍の内側で、後ろ側にある脊柱と結びついていた。大きさは10センチ×6センチ。表面は軟らかく、22番の注射針で刺すと漿液血液状の黄色い液体が出た。
 メスの鋭い先と鋭い尻を使って胸膜を分け、腫瘍の下側を切り離した。黄色くて少し硬い腫瘍の表面を横切って、胸膜を完全に切り分けた。腫瘍の下側で、内側の厚くなった部分は腫瘍の本体の中に消え、腫瘍の内側の方は、退化した様子で黄色っぽくなっているのだった。
 腫瘍の下側の端は、脊椎の胸膜の下側に入り込み、見えなくなっていた。腫瘍のその他の部分は、明らかな付着箇所の後ろから掻きと採り可能な限り元に近いところから切除し、残った箇所は焼灼(しょうしゃく)した。
 付着箇所は脊中から発し、厚くなった神経の幹のようになっていた。基のところではこの神経の幹は異常に硬くなっているように観え、次第に太くなって腫瘍の中に溶け込むにしたがい、軟らかくなっていた。
■顕微鏡検査
 一部は硝子質化した外観を呈し、一部は少し長くなった紡錘状の細胞で覆われ、ところどころが繊維状のマトリックスになっていた。細胞の大きさ・形も様々で、中には染色に対し違う反応を示す細胞もあり、また、これらの数もバラバラだった。多くの細胞核がほとんど巨大化し、黒ずんだ色に染まった。1つの特別な場所には、たくさんの結節腫細胞があった。
■病理学的診断
 標本Aは血液色素の食作用を伴い、脳神経から発し、悪性化が早い嚢(のう)腫性神経節神経線維腫。「我々はこのような診断結果と患者これまでのガンの病歴から診て、将来あちこちに再発が起きると信ずる判断に傾いた」
 12人のガンの専門医が母親に「よくなることは無い。自分たちに出来ることは何も無い」と告げた。
■1950年6月20日ゲルソンクリニックでの初診時の状況おおよびその後 
 全身に小さな腫瘍が12あり、1つは顎の骨の左上部に、1つは眼の骨(眼窩)の上部外側にあり、まぶたを圧迫。1つは右側頭部、1つは左上腕、そして右下腕と左の腰の骨、腹壁などにそれぞれ2つずつあった。
 右耳の聴力は低下、右目も一部は閉じ、これは内側に出来た白内障のためだった。
 1ヶ月以内にほとんどの腫瘍は触知できなくなり、2ヵ月後には全ての腫瘍が消えた。3ヶ月目には大きく目立っていた傷跡のほとんどは、ウンと小さくなった。肝臓検査の結果は正常ではなかったので、「治療はずっと手を緩めずに続けるよう」に、助言した。しかし結婚後、私の助言に反し、2年間は全く食事療法から離れていた。
 ほぼ2年間は全て順調だったが、1955年12月、右腕が震え字が書けなくなった。そして目眩(めまい)がして階段を下りられなくなった。家の中や道路で何度か、よろけて転んだ。その後の数ヶ月のうちに視野−特に右目の視野が狭くなった。頭の中には「しめつけらるような感じ」や圧迫感を感じるようになった。
 1956年5月15日、眼科医が脳腫瘍が相当に進んでいるのを発見。盲目になるのを避けるために、「圧迫を減らす眼の手術をすぐに受けよ」と勧告した。そして4日後の同月19日、患者は母親と私のクリニックに再び戻って来た。
 3日後の同月22日、先の眼科医は「深刻な状況だから、すぐにも減圧手術をしないと盲目になる」と言った。母親の同意も得て、「私のクリニックでは手術しない。その代わり長期にわたるが、特に集中的な治療を使用」ということになった。
 同年6月22日。先の眼科医は「びっくりするような改善だ」と述べた。これと同時に、体全体も歩行も書くこともその他の行動もみな、改善された。そして患者自身および母親からの、何通もの手紙は「そういういい状態が続いている」と言って来ていた。
 翌1957年5月の終わり。母親から電話がかかって来て、「患者が突然意識を失い、強いテンカンの発作を起した」と言って来た。土地の2人の医者が「腫瘍が再び大きくなった」と診断した。私の解釈では最も考えられる理由は、体が毒された(中毒症)か細菌感染だった。
 私は「昼も夜も2時間おきにコーヒー浣腸をし、可能な限り大量の野菜・果物ジュースとペパーミント茶を摂らせろ」とアドヴァイスをした。2日で患者は完全に回復した。そして母親は「メイドが週末にレバージュースを作った後、ジューサーのグラインダーを掃除しなかった」のを発見した。その結果、グラインダーには子牛のレバーのカスが2日半残って発酵し、それが月曜日に有害作用を起したのだった。
 私が受け取った最も最近の手紙は、同じ年の7月末のもので、「患者がさらによくなっている」ことを伝えていた。
■1956年5月22日眼科医のレポート 
視野:右目−20/100
   左目−20/40−1
瞳孔不動症、右目の瞳孔が左目より大きい。
右目−視覚異常。角膜反射−左目は正常とみられる。
凝視の場合に必ず回旋眼振があり、最初の位置でも色々な眼振がある(検眼鏡検査)。
努力して凝視すると時々、思い通りで無い動きを生じる。これは多分、脳幹のトラブルを示唆するもの。眼振は左側における方が右側へ向かう時より、ずっと早い。右目への動きには、より多く回旋的の動きが伴う。
内部/右目 白内障が起きかけている。白内障でなければ視神経炎の曲光度は1.5から2。
   左目 視神経炎の曲光度3。
 私の考えではこの視神経炎は頭蓋内の圧力の増加が原因であり、それは頭蓋内の組織の回復を示すものである。
視野と機能の検査をするために、注意深く、かつ個人的な試みもした。しかし、患者の充分な協力が得られず、確たる検査が出来なかった。

判明したこと
1)頭蓋内の組織の回復による視神経炎(頭蓋内の圧力増加が原因)
2)瞳孔不動症
3)間欠性の複視
4)時々起こる不整合運動
5)右目の角膜無感覚症 

診断:脳の腫瘍が拡大し、小脳および脳幹へも移転していると診られる。
深刻な状況で、すぐに最大限の処置が必要と思われる。
1956年6月22日眼科医のレポート 
視野:右目−20/100(白内障)
   左目−20/25−1
眼振はあるが、それほど目立たない。今日は不整合な動きは発見できず。
瞳孔不動症はある。しかし左目の角膜反応は正常。角膜反応は右目の方が、より、ハッキリしている。
右目は曲光度が1上昇、左目は2上昇。前に診られた左目の出血がなくなったと言う事実は、注目すべき変化である。
まだ時々複視あり。患者の両目の屈折の相違が原因と感ずる気に私はなっている。
左目の視野が20/40−1から20/25−1に向上したことは、驚くべきことである。
全体として、顕著によくなっている。
■1956年10月26日眼科医のレポート 
診察日は1956年10月19日。
視野:右目−20/200
   左目−20/20−2
角膜反射−正常。
右目の鼻側角膜は耳側より敏感ではない。
瞳孔不動症−右目3mm。左目4mm。
内部(検眼鏡検査)−右目視神経炎の曲光度3。左目3、出血は認められず。間欠性の複視。
問題点:
 左目の視力は明らかに向上したのに、視神経炎は前回の検査時より進んでいる。
 視神経炎が進んだことに関しては他のケースでも、私は(ゲルソンの意味=訳者)一時的なそういう現象を診ている。これは傷跡での充血・腫瘍が体に置き残したもの好転反応(フレアー・アップ)≠フ繰り返し、いわゆるアレルギー的な治癒反応などを示唆するものである。
■1950年6月21日X線検査レポート 
 背骨の検査では、骨や関節にける病変の証拠は認めず。
■1950年12月20日X線検査レポート
 頭蓋骨の検査で骨の病変は認めず。
■1955年12月7日X線検査レポート
 胸・髄軸・側面のX線検査。小さな条痕様の影が横隔膜の上側にある。X線検査の結果は、以前に胸膜の肥厚があったことを示す。左上葉に小さなカルシウム沈着が観られる。右の第6肋骨に手術跡あり。他に病理学的な状態は認められず。
■1956年5月22日X線検査レポート
 頭蓋庫打つ・骨軸・側面・基底のX先見さ。頭蓋全体を通じてかなり深い指状突起窩がある。周辺の蝶形骨大翼の一部を含め、側頭骨垂体部の頭上に転移を示す欠損が認められた。
症例4)海綿芽細胞腫 [2009年11月07日(土)]
■P.V氏、16歳、未婚。
■手術後の臨床診断:海綿芽細胞腫、視床の左半分。
■生検および手術レポート
 主訴は頭痛と間欠的な複視で、これが2年続いた。顔の左半分が最低3ヵ月半の間、感覚を失う。検査による客観的所見は次のとおり。 
1)右前頭部に開頭手術の治った傷跡と同じ両後頭葉に治った傷跡。
2)両眼の同側半盲。
3)網膜乳頭の色が薄い。
4)上下を見る時の複視。
5)顔面の左半分、体幹の左前半分、左脚、左足に感覚の過敏と異常。
6)黄斑部残留なしの右眼同側半盲。
■研究分析報告
 尿分析陰性。
髄液、澄んで色なし。
タンパク30mg/%
バンジー反応0
ワッセルマン反応、陰性
カーン梅毒血清試験、陰性
■診断の経過
1)1950年2月20日
 視床の病変を示す参考になる脳波には、特に変化なかったと結論しなければならない。ノストラゾルで、光の刺激を与えてもそうだった。
2)1959年3月20日
 視床の病変の大きさや位置から考えると、この脳波はごく小さな異常しか示していず、驚くほどである。
3)頭蓋骨のX線検査 1950年3月17日
 左前側頭に開頭術の後あり。骨片が残りこれは取り除かれてはいず、その下に少量の液が溜まっている。左側頭葉の多くの部分が切除されている。後になってできた、医学的処置による石灰化がまだ観られ、これは残留の腫瘍の存在を示す。
4)空気脳写図 1950年2月2日
 左の視床の中央および後ろ寄りの部分に病変の広がりあり、今回の気体注入撮影法による写真と1947年チューリッヒの病院で撮った物の間に、大きな違いは無い。
5)手術 1950年2月28日
 左の骨成形開頭術と腫瘍の切除
〈要約〉
 この新生のものは高度に細胞状の物で、神経膠腫に思われる。中央部は石灰化している。場所は脳橋の前で、天膜の上、視床の中である。X線治療をもっと続けるべきである。患者は手術3日後に失語症になった。しかし、その時でも精神は確かで、言葉での命令を理解するように観え、指導に従った。
 なお慈悲、肥大Rの3番目の脳神経の麻痺している証拠が明らかになり、最後の手術の日以来、左の5番目の脳神経の働きは阻害されていなかった。これは運動機能も含む脳神経である。言葉の回復は少しずつ続き、退院の日まで続いた。最初に話した言葉はフランス語で、ドイツ語・ハンガリー語・古典ラテン語の交じり合ったものだった。はっきりとした訴えの無いまま、傷は治った。
 退院時には患者は左の5番目の脳神経が感覚も運動機能も含めて、完全であることを示した。また、全手の感覚機能もそうだった、左3番目の脳神経の弱さも改善されたが、左の瞳孔は依然、右より大きく、反応もややぎこちなく、したがってそれに照応する眼球運動も同様だった。
 入院時の検査ではあった前述の感覚の過敏さ・異常さは、体幹の左前半分、左脚・左足からは完全に消えた。読むのは困難だが可能で、書くことは不自由なしだった。最近の記憶は弱く、集中力も低下した状態にある。
■1951年6月17日ゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
最近の2週間に患者は、右眼の眼瞼下垂に気付いた。3,4週間前から歩くのもぎこちなくなり、体のバランスが取れなくなった。また手の中に鉛筆がかんじられないため、書けなくなった。
 最後の手術以来、左目は塞がった。あけることは出来たが、あけるとモノが2重に見えるので閉じてしまうのだった。以前にはなかったほど体が弱くなったと感じたが、体重は1951年1月以来10ポンド(約4.5キロ)増えた。
 手術後、唾液が口左の端にたれるようになり、右眼の眼瞼下垂が起きたときからは唾液は溢れて口の右端からもたれるようになった。そして、自分ではそれがどうにもならなかった。右腕と右足も動きがかなり悪かった。最初の手術以後、嗅覚がなくなったのに気付いた。嗅覚は2回目の手術で戻って来たが、右の鼻腔だけ戻って来たようだ。患者は「自分の体内の悪臭を感じる」と訴えたが、それは外から−つまり「他人≠ノは感じられないものだと」訴えた。
 患者は顔色も悪く、気持ちもふさいでいて、ぎこちなく話し、発音も明瞭ではなかった。この後、何週間かの間に右脚と右腕が攣縮気味になり、腱反射は激しくなった。
X線検査をしてみると頭蓋骨の両側に大きな手術跡。頭頂葉あるいは視床の下後方および中央に、細かい網目状の大きな石灰化部分がある。
 第1、第2回目の手術後の所見から、2人の神経外科の権威は「患者に余命もそれほど長くない」との宣告をしていた。
 我々は直ちに治療を始めた。
 患者は1955年4月21日、再検査をモントリオールで受けた。患者はいい状態で音楽に深く興味を持ち、レコードをたくさん収集。そのほとんどはクラッシック音楽だった。彼は上下の唇の右半分ずつを使って驚くほど上手く話した。舌は右側にまだ少し垂れていたが、全身に対する間隔はほとんど回復していた。ただ右腕と右脚の動きは、部分的に回復しただけだった。本人には「長い間眼が見えなかったが、今はずっとよく見える」と言った。
■X線検査レポート 
「私はP.V氏の頭蓋骨を貴方〈ゲルソンの意=訳者〉の指示のように、X線で再検査した(11−23−51)そして1950年3月17日、つまり手術の少し後にモントリオール神経研究所で撮られたフイルムと見比べてみた。私の判断の限りでは、1950年3月以降、大きな変化は見られなかった」
 石灰化部分は取り除いてはいないのだから、これは腫瘍が成長していないことを示すものである。
 患者は実際生活には適応不全のままなので、家族の負担になっていた。病んだ母親は1人で食事を作ってやることも出来ず、そのため私の治療は続けていなかった。
 慢性的に肝臓機能が低下していると言うこう云う例では、私の治療法でしか救うことは出来ないし、元気でいることも出来ない。私の治療法は、若干程度、手を緩めることが出来るだけである。脳の手術とX線治療を受けたこういう症例の多くは、同じようにあまりいい結果になっていない。交感神経の座である第3脳室の基底にダメージを受けたケースも、この中に入る。
■1957年7月27日最後のレポート 
この症例を出版社に渡してから、患者の少年が1957年6月8日に突然亡くなった。「彼は私の助言に反し、2年間私の治療を中断したままだった」と云う知らせを受け取った。
症例5)小脳橋角腫瘍 [2009年11月07日(土)]
■R.W.C牧師25歳、2人の子持ち
■臨床診断:小脳橋角腫瘍。
■以前の病歴:1955年3月、患者は電話で聞く声が、小さく聴こえるようになったのに気づいた。その数ヶ月前には口の中の左半分に痛みと酸っぱさを感じた。
 子供頃から副鼻洞にトラブルがあり、1040年以来、前頭洞のトラブルが一層悪化。
 1940年7月、盲腸炎・扁桃剔除(へんとうてきじょ)の手術を受けた。
 いくつかのクリニックで精神分析的な治療を受け、首がこったり・背骨の下の方の痛みのために整骨治療を受けた。2つの症状は緊張の多い時には一層ひどくなるのだった。
 1年位前に左の下眼瞼にチック症状が起き、「舌の左半分にチクチクする感じ」が起きた。話すのは普通に出来たが、後には口の下左半分に感覚がなくなった。時々目眩(めまい)を感じ、体のバランスをとりにくくなり、歩くと自然に右側に寄った。左耳に耳鳴りがし、左耳の聴力がなくなった。
 その期間に左耳の聴力は、顔の反対側に起きた過敏さと一緒に向上した。
■ペンシルバニア大学病院脳外科部長のレポート
 「1956年2月17日、私は貴方の患者R.W.C牧師を診た。35歳の既婚の白人で、パブディスト派の牧師である彼は、左耳の聴力が低下、顔の左半分に知覚異常があり、時々、歩行中によろめくのだった。
 こういった全ての症状が1年位前から続いていた。ついでに云うと彼は、大学時代に強い神経衰弱になったこともあり、ひどく神経質で緊張の高い性格である。
 検査で左顔面の顔面神経が少し弱く、左眼の角膜と顔の左半分の感覚が少し失われているのが判った。左耳の聴力がなくなっているのは、臨床的に非常に明白だった。神経検査さではバランスは正常だった。
 この患者の治療では私たちは、左側の第5・7・8番神経を巻き込んだ病変に対して処置をした。もちろん炎症的な病変と小脳橋角腫瘍とでは鑑別診断が必要である。
 私はX線検査を参考に、これでもし聴覚神経腫瘍の疑いがあるならば、翌月には患者を当病院に入院させ、脳波記録や前庭検査が必要だし、後頭下の開頭手術もと考えた」
 追伸
 今いったようなわけで私は、X線検査の結果を調べ聴覚神経腫瘍だと感じるにいたり、患者には3,4週間のうちに入院するように勧めた。だが患者は貴方と相談してみて、その結果としての自分の決断を私に伝える、と答えた。
■1956年3月8日のゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 口の左端を上げられず、左軟口蓋と口蓋垂は右側に垂れ、歩行も困難で両目を閉じると左に回れなかった。
 皮膚と腱の反射は基本的には正常だったが、両膝の反射は弱かった。顔・首・胴・の左半分の感覚は減退。しかし運動失調症や攣縮ということはなかった。
聴力図:左耳は問題なく、右耳は正常範囲内。
 1956年の9月の終わりにふさぎの程度は減り、両目を閉じてもよく歩けた。疲れた時には体が不安定になるだけだった。口の左端も軟口蓋も正常な位置に戻っていた。
 1957年5月、6ヶ月前から仕事をしていた。最初はパート・タイムだったが、後には家庭訪問以外の仕事は何でもしていた。
 精神的には前よりも伸び伸びとして、以前よりも自信を持つようになっていた。
■1956年3月8日のX線検査レポート
 頭蓋骨・髄軸・側面・基底のX線検査。はっきりとした骨の変化は認めず。ただし、ブルーメンバッハ斜台のあたりが、やや薄くなっていると言っておく必要がある。 
■1956年7月23日のX線検査レポート
 頭蓋骨側面検査。1956年3月9日と大体同じ状況。
■眼科医のレポート
視野 (1956年5月22日)
 右眼:20/20−2
 左眼:20/20−2
 瞳孔不動症−右眼の瞳孔が左目より大きい。
角膜反射−右眼は明らかに正常
       左眼については、私はどんな角膜反射も引き出せなかった−明らかに麻痺して
      いる。
 共役的な働きは、上下のある部分を見つめる時以外には正常。すべての共役的凝視において、細かい目の動きができる。ただ、右側の側面を見る場合に色々な眼の動きが多くなることに興味がある(これは小脳橋角腫瘍の場合にあり得るべきことである)。
内部の精密検査
 瞳孔の拡大
  右眼−外周は正常。細静脈やや充血。
  左眼−鼻との今日ややハッキリせず。細静脈充血。
 印象−小脳橋角腫瘍

視野(図面同封(1956年6月21日)
右眼:20/20
 左眼:20/20
  瞳孔は左右等しい。
 瞳孔不動症−今日は認めず。
角膜反射−右眼、正常
       左眼は角膜の感度減退。しかし、感度は明らかに改善された。上方の凝視に明
      らかな障害、今日は認められず。最側方の凝視の際の眼振。眼振には客観的な
      変化を認めず。眼底は正常で、また血管系は明らかに正常範囲内。

視野(図面同封(1956年11月21日)
軽度の結膜炎、最近の細菌感染による一時的なものと思われる。瞳孔左右等しい。
右眼:角膜反射正常
 左眼:少し角膜反射低下、ただし眼はフルに動かせ眼筋とは関係なし。
内部(1957年1月25日)
 正常。症状は減退。複視なし。瞳孔不動症も認めず。左眼の角膜販社やや減退。
 内部正常。眼筋の異常は随伴・麻痺、共になし。
 両眼の共役的動きに問題なし。
 視野検査(対診法で視野の変化示さず)

視野(図面同封1957年3月29日)
 右眼:20/20
 左眼:20/20
  瞳孔は左右等しく、外周正常。反応も共感性で直接的。
 右眼−角膜反射正常。
 左眼−角膜に、やや感応度減退が、多分あると認められる。共役的働きは充分。
最側方の凝視時における細かな間欠性の眼振が出て来た。乳頭・血管系・基底は全般的に正常。視野検査の結果、正常範囲内であることが判った。

視野(1957年5月17日)
正常。症状は減退した。

追伸
 私が最初にこの患者を診た時には、乳頭ははっきりしていた。しかし私はその時、細静脈は異常に拡張していると考えた−今日ではその印象は受けない。そして私の考えでは、血管系は全て客観的に正常である。

視野(1957年8月1日)
 右眼:20/20
 左眼:20/20
 最後に検診した5月17日の結果と同じである。血管系は肉眼的に観て正常である。視覚検査を行った。写しを同封。視野は最後の検診時に比べ、何かの変化があったとしても、それは少しよくなったということである。
■1957年12月のレポート
 患者は正常な状態にあり、もう1年以上もフルタイムで働いている。 
症例6)脳下垂体腫瘍 [2009年11月07日(土)]
■G.C.S氏47歳。
■臨床診断:脳下垂体腫瘍。
■以前の病歴:クイーンズ総合病院のレポートは次のように言っている。
 「患者は1953年7月6日入院。主訴は「過去1ヵ月半ひどい頭痛がし、視力がひどく落ちた」というのだった。4,5年にわたり次第に視力が落ち、患者はその治療を受けた。患者は21歳の時以来、梅毒とされて来た。入院時の診断は「視交叉病変」だった。
 視野の検査では両目とも視力が大きく低下していて、特に左眼の低下がより大きかった。脳血管の検査は前頭あるいは頭頂前頭のあたりに腫瘍の存在をうかがわすもので、多分髄膜腫≠ニ思われる。そしてこれが視力の喪失や、過去における精神の変調という病歴の理由と考えられた。患者は後で手術にくるように、として同月の20日に退院した。

ワッセルマン反応プラス4、血糖値78mg%

頭蓋骨のX線検査
 左前頭に曲線の放射線の通過する箇所が見つかった。以前の手術の後と思われる。眼窩は対象で両側に正常で、両方の眼窩に病変が食い込んでいる証拠は無い。トルコ鞍は肥大もしていないし、深くもなっていない。トルコ鞍前部の床上突起も、正常に観える。後部の床上突起と鞍背は少し薄くなって、ミネラル分が減少しているように観る。ハッキリとした破壊が起こっているとは言えないながら、これが臨床病状に関連ありそうだ。

血管造影検査
 大脳前部の動脈は上方で側方、かつ後方に寄せられていて、それが左側よりも右側に、より寄っているように観える。トルコ鞍の基底部は、正常に観える。

脳波
 異常はない。

胸のX線検査
 陰性である。

最終診断
 脳腫瘍。患者は医学博士の兄弟と相談した結果、手術は拒否した。
■1953年7月22日のゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 患者はほとんど盲目で、自室でも歩くのは困難で、手で周りを触れて歩かざるを得なかった。いつもひどい頭痛と目眩(めまい)を訴えていた。立ち上がったり、歩こうとしたりするとバランスを失い、よろめいた。頭蓋骨の前と後ろに重い鈍痛もあった。腱や皮膚反射には、特別なものはなかった。
 1953年7月23日のX線医によるX線検査では、トルコ鞍の鞍背は非常に薄く脱作石灰状態だった。後部の床上突起は小さくて異常である。前部の床上突起は正常に観える。
 これらの知見は、鞍背の辺りに腫瘍があることを示すものである。
 右眼の眼窩の上方中央の縁は、左のものに比べ薄くなっていた。眼窩に病理学的異常は認められない。治療開始、何日か後には頭痛は減った。しかし右の顔面に引き攣りが起き、しばしば強く起こり痛みも伴った。
 1953年9月の終わりには患者は痛み・頭痛・目眩が亡くなり、歩行も自由で確かになった。右の顔面もその2週間後には正常になり、今もその状態が続いている。
 1953年12月には仕事に戻った。物は左眼で見え、その見え方も何年来なかったようによく見えた。しかし、中央部のものはそれほどよく見えなかった。
 右眼の視力も読んだり書いたりに限ってならば、正常だった。
 1954年5月26日に行ったワッセルマン反応の検査では、梅毒の治療は受けなかったのに、陰性になっていた。
■眼科医とX線医のレポート
1954年2月6日、頭蓋骨と髄軸および側方のX線検査
 トルコ鞍の鞍背と後部の床状突起は、石灰化が少し増えている。その他は以前と同じ状態である。

1954年終わりには患者は保険代理業の試験に合格。弁護士試験の勉強を始めた。仕事と勉強の忙しさで、彼は食事療法を次第次第にやらなくなった。

1955年3月
 左眼の状態は再発を示すものであり、指の識別も出来なくなっていた。右眼はいい状態を維持していた。

同年5月
 右眼も悪くなり、新しい症状を呈した、翌6月、再検査の結果は次のとおりだった。

1955年6月16日
視野 
 右眼−20/20。
 左眼−現在の眼鏡では光覚を示さず。
瞳孔の状態
 右眼−光に対する直接反射および収束に限界あり。右眼から左眼への同感性瞳孔反射な
    し。
 左眼−直接および同感性反射を示さず。左眼から右眼への同感性反射なし。
角膜反応:正常。
 眼振なし。
麻痺および随伴的な眼筋異常なし。
眼圧:正常
検眼鏡検査:
 右眼−前部硝子体内の少数の浮遊物以外は眼球は清澄。血管系検査では網膜の血管
    樹の中で細静脈のみ軽度に細くなっている。側頭側に乳頭の蒼白がより目立つ。
 左眼−前部硝子体内の少数の浮遊物以外は眼球は清澄。血管樹の中で細静脈が目立っ
    て細くなっている。光覚が無いため、左の視野検査は出来ず。

右眼−視野の検査は次のとおり。
1)視野が狭くなっている。
2)上方側方4分の1の部分にある、末梢の副中心暗点のあたりにある薄明≠フため、盲
 点が大きくなっている。
解釈
 視野は脳下垂体腺腫瘍に典型的なものではない。しかし私(ゲルソン)の20年以上にわたる経験からして、この症例のような場合は、このタイプの変わった視野になることがあるものである。
 1955年の終わり、患者は再びよくなり、左眼の視力を除いて、自分でもいい状態と感じた。同年12月2日の眼の検査結果は次のとおりだった。

1955年12月2日
 視野 
 右眼:20/25。
 左眼:最後の検査結果と変化なし。光覚はハッキリしない(現在の眼鏡では)。

右眼−光反応と同感性刺激に対する反応に限界あり。右眼から左眼への同じ感性瞳孔反
   射なし。
左眼−同感性刺激および光刺激に対しオな時間性および直接性反射は共になし。角膜反
   射は正常、眼振なし。麻痺および随伴的眼筋異常なし。
眼圧:正常。
内部:右眼−前部硝子体内に少量の浮遊物あり。視神経乳頭に軽度の一時的蒼白あり。
    左眼−硝子体内に少しの混濁。現神経の萎縮が進行。欠陥が目立って細くなって
       いる。
 視野(右眼)は向上した。

1955年11月
 患者は自分の体と心の状態に非常に満足し、特別な症状は訴えなかった。

1957年8月3日
視野 
 右眼:20/70−1。
 左眼:光覚なし。
強膜可視部は白く眼振はなく、前眼房は正常。
瞳孔不動症。右眼が左目よりも大きい。
瞳孔:異常。光反射および輻添的反射が右眼にあり、直接および同感性反射のいずれも左
  眼にはなし。
   右眼から左眼への同感性反射をハッキリと示すことが出来ず。
内部:右眼−やや目立つ蒼白あり。血管も少し狭くなっている。萎縮も進んでいる。
   左眼−蝋のような蒼白あり。
眼圧:右眼−18
    左眼−18

 患者は勉学と仕事のため、1956年のクリスマスに治療を止めた。
症例7)頚部および胸部脊髄内神経膠腫 [2009年11月08日(日)]
■A.H嬢、15歳
■手術後の臨床診断:頚部および胸部脊髄内神経膠腫。
■以前の病歴
 患者は1945年9月、ニューヨークのベス・イスラエル病院に入院。入院時には歩行困難・右手第4、5指の感覚異常や無感覚・その他の全身の絶え間ない発汗という病歴があった。そして冷えと無感覚が両手両腕に広がった。生理は前から止まっていて、体もひどく衰弱していた。背中から首、頭から頭頂部にかけての、ひどい痛みを患者は訴えていた。無熱状態だった。
 1954年10月15日に脊髄腫瘍と診断され、広範な脊椎弓切除術で、第1胸椎から第3胸椎の間の脊椎弓を切除した。この切除手術は後に上へと拡大され、脊柱や第4から第7頚椎の脊柱弓も切除した。病院のレポートは次のように書いてある。
 「そこの硬膜は張っていて、それを開くとそのあたりの索は光って赤と灰色の外観を呈し、膠腫組織が完全に侵入しているようだった。
 索は、硬膜の開いた場所から腫れあがっていた。側面と前面からの精査をした。腹部側に位置した髄質外の腫瘍ではないことを確かめるためだったのだ。
 細い針を索の中央に差し込んだが、嚢(のう)胞性の液は何も採れなかった。患者の下肢の運動能力は何とかいい状態だったので、生検のために索を切開するのは勧められなかった。
 硬膜は減圧のために開いたままにし、閉じるのは1番の腸線を使って、筋肉と筋膜の層で行った。
 X線治療がこの後で行われたが、患者がほとんどショック状態になるので、1回で中止した」
■1945年10月27日のゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 患者は手術後ひどく衰弱していて、両下腕と肩に3,4回のひどい筋肉の痙攣の発作を起した。前期の症状に加えて、こういう症状が起きたのだった。
検査では基本的に次のことが判った。
右手小指の軽度のチアノーゼとと無感覚を伴った、腕と手を含めた右腕全体の顕著な衰弱、右バビンスキー徴候、右上部腹壁反射の欠如、深い権反射の両側への増大、瞳孔の拡大、指から指、指から鼻にかけての目立った運動失調症、体のバランスの失調。
先の手術レポートにも関係した神経専門医が、神経検査をした。
私はすぐに治療を始め、患者は次第によくなったが、次の年に3回のひどい、いわゆる好転反応(フレアー・アップ)≠ェ起きた。
1946年10月に起きた、そのうちの1回では神経検査がされ、右手の感覚の喪失・両脚の膝蓋骨反射の増大・両くるぶしの間代性急攣・両側のバビンスキー徴候などが判った。そして患者は最初の減圧手術のいい効果が期待されてしかるべきなのに、悪い方向に向かっているのだということになった。
しかし、この時から彼女は着実によくなっていた。同じ神経医が1948年5月に行った再検査では、明確な改善≠ェ明らかになった。
残っている症状は、膝の反射が少し在りすぎることと、バビンスキー徴候があるだけだった。4年間の食事療法の後、彼女はタイプ・ダンス・スケートをするようになり、そこには以前に深刻な神経性の病気をしたと言う影はまったくと言っていいほどなかった。
 患者は1949年半ばまで、ゲルソン式食事を3年間続け、全て順調だった。1952年7月、頭の中央部の痛みと、時に突然の視覚消失を伴う目眩(めまい)を訴えた。視覚消失は1,2秒続くもので、1日に3,4回起きた。右足の具合が悪く、歩く時には突っ張る感じで、また右腕にも引き攣りが起きた。後になると右手の指が力を失い、右手では本や紙も持っていられなくなった。食事も片手で摂らざるを得なくなった。
 7月の末、脳腫瘍が左の基底中央部にあると診断された。治療をすぐに始め、数ヶ月のうちに痛みやトラブルも消え、同じ年の12月には痛み、目眩もなくなり、右脚も治って階段の上り下りも自由になった。しかし右腕の強張(こわば)りと軽度の運動失調は残った。 
 最後に診たのは1956年7月28日である。その前2年間、彼女は私の食事療法から、多かれ少なかれ離れていた。そして右腕、右手のこわばりが増大して、右腕右手をあまり使えなくなっていた。リハビリ治療も受けていてカイロプラクティックの治療を受けていた。
 痛みや深い、めまいその他の症状はずっとないままで、視覚も正常だった。聴覚は彼女自身の感じでは、左耳は正常以上(感覚)だった。
 最後のレポートは1957年7月27日で、彼女は「右腕と右脚の強張りや弱さを克服するために、機械的な治療を受けるつもりだ」と言って、私の意見を求めて来た。私は「機械的な治療やリハビリではそれほどの効果は期待できない。それよりも厳格さを軽減した形で私の療法を続ける方がいい結果が得られよう」と、伝えざるを得なかった。どっちの結果も満足のいくまでとはならないまでも、私は経験からそうとしか言えないのだ。
この患者は他の患者(約15%の患者)と同じく、1〜2年の標準的な年月より長い治療期間を必要とする特別なケースではどのくらいの期間が必要かを決めかねることを示す実例である。体全体、特に肝臓の機能の回復が決定的に重要であり、かつ後になっても回復常態を維持し続けることが重要なのだ。そうでないと、他の事がどんなに上手くやれても効果は部分的で、かつ一時的なものにしかならない。代謝機能の検査を時々やる必要があるのも、こういう理由による。
症例8)頚索血管腫 [2009年11月08日(日)]
■C.H,ch氏、50歳、既婚、4人の子持ち
■手術後の臨床診断:頚索血管腫。
■生検・手術・以前の病歴
 47歳の中国人男性のこの人は、左下肢の温度感覚の異常や鈍感さに最初、気付いた。2ヶ月前から両肩の間の一帯、特に右肩よりの場所に痛みを感じるようになった。また1ヵ月半前からは頑固な便秘も起き、さらに1週間前からは排尿にも困難が伴うようになった。入院の数日前から右脚も弱くなったが、これは1ヶ月前から左下肢に起きていた症状が、右脚にも広がったのだった。
 検査では歩行が少し危うげで、右脚に若干の弱さがあり、深部反射も右の方が大きかった。
 7番頚椎から下の左半身に温感がなく、3番胸椎の下からはその感覚が減退していて、1番胸椎の辺りに痛覚の過敏がある。髄液は黄変し、部分的に流れが悪い。総タンパク(tp)は50mg%。
 手術で第5頚椎から第1胸椎にかけて、血管の変形が広がっているのが判明。造影剤パントパークを使って、骨髄像検査もした。そして、それを観た1人は「血管の変形を示すもの」と判断した。

手術(1947年12月4日)
 血管変形(血管腫)に対する首の椎弓切除術。
 局部麻酔をかけ第4頚椎から第2胸椎までの間を切開、第6、第7頚椎、第1胸椎(?)の薄膜を切除した。骨の縫合の間の硬膜を開くと異常な、多くの蛇行する動脈があらわになった。硬膜を閉じ、傷は普通のやり方で縫い合わせた。
 患者は1947年11月25日、左下肢に温度の感覚の狂いと、鈍感な感じが起きていると訴えて、マウント・サイナイ病院に入院。また2ヶ月前から、両肩の間のあたりに痛みが起きていたという。
■1949年5月ゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 患者は19回の強いX線治療を受けた。この治療の後、両脚・両腕・首から下の全身が麻痺した。1949年5月、私の不在中にM博士が私の治療法で、この患者に治療を開始した。
 1949年5月、両腕・両手の腫れが消え、両腕および体で温感を感じられた。食欲も出て、よく食べた。精神的能力もいついい状態なった。
 1949年9月8日に、私が初めて診た。患者は「首と頭以外には体中が麻痺している」と訴えた。両腕・両手・体の筋肉も自発的に動かず、両脚も強張ってただ時に意志とは無関係に、はねるように動くだけだった。
 両方の二頭筋・手首、特に左手の指の関節に痙攣が起こるのだった。体温は上がり気味で、華氏100度あるいはそれよりも少々高目だった。車椅子を使っていて排便・排尿も自由にならず、自分では食事も出来なかった。
 翌月、患者は前よりもエネルギッシュになり、疲れにくくなった。体温も、ほとんど正常になった。体の動きもよくなり、右手や右手の第1・2・3指は、ある程度うまく使えるようになった。が、両脚の具合は変わらなかった。ただ体全体にも両腕・両脚にも、もう腫れやむくんだ場所はなくなった。
 1950年1月には状態はもう少しよくなり、両脚に起きていた意志とは無関係の痙攣性の動きはずっと少なくなった。ベッドの上にまっすぐ座れ、体も左に傾けられるようになった。また手術以後はかけなかった汗が、かけるようになった。左腕を後ろに持っていったり、前に突き出すことも出来た。しかし、両脚は動けないままだった。
1951年6月
 尿意が感じられるようになり、ベッドを濡らしたのは夜1回だけだった。便は自分で出来なかったが、一昼夜のうち、キチンと2,3回できるようになった。
1952年12月
 体の動きがかなり回復し、左手でグラスや電話の受話器が持てるようになり、排尿はどうやら自分で出来た。しかし、排便は、そうはいかなかった。だがそれも朝夕、決まった時間に、規則的に出来るようになった。
 手術後、患者の基礎代謝はマイナス20から23にまで低下し、これを高めるには長い時間がかかった。
 私の求めで患者から来た最後のレポートは、1957年7月23日のものだった。
 その中でも興味深かったのは、その時現在の患者の様子が詳しく書かれていたことだった。患者の回復振りは顕著で、例外的ともいえるものだった。
 「7月23日の貴方の求めに応えて、真実、私は貴方の治療にこの上なく感謝していること、私の健康にお気遣いいただいて有り難く思っていることを、お伝えします。
 貴方の治療によって内蔵の機能は、ほとんど正常なまでに回復しました。消化機能もよくなり、何のトラブルもなく、健康人と同様に食べられるようになりました。腸の動きは運動不足なので、機械的によくしているのはもちろんです。
 息切れも暑くて湿気の多い日にだけしか起きません。貧血もなくなり、頭痛も起きません。
私は健康人と変わらないので、友人たちはその早い回復振りに驚いています。残念なのは、神経の方にいい兆しがみえないことです。体の下の方は感じがなくて、自分で食べようとしても、スプーンやフォークを持つのがやっとです。右手も弱く、痙攣の徴候があります」
症例9)悪性絨毛上皮腫 [2009年11月08日(日)]
■A.B婦人、30歳、既婚、2人の子持ち
■臨床診断:悪性絨毛上皮腫。
■生検レポート(ニューヨーク・ブルックリン、マイモナイデス病院)
 子宮内膜片は合胞体腫的要素を示す。掻爬では脈絡膜上皮腫の場合におけるような絨毛上皮腫的要素が明らかになった。
■以前の病歴
 最後に生理があったのは、1952年12月16日。そして6週間後に出血があり、その午後に流産した。

 1953年1月25日
 医者が膣から流産の残り物を取り除いた。1週間床ににつくと出血が止まり、擦過傷はなかった。3日後、再び出血。10日間の安静を命じられた。ベッドに寝ている時には出血はなかったが、起き上がるとすぐに出血が起きるのだった。
 1953年2月17日
 マイモナイデス病院に入院。
      2月23日
 ブドウ糖の点滴注射を受ける。
      2月25日
 掻爬。2日後に退院した。
 家でまた出血。
 アッシュハイム・ゾンデック反応は陽性で、悪性絨毛上皮腫と診断された。
      3月4日
 べレビュー病院に入院。アッシュハイム・ゾンデック反応はプラス・プラスだった。
      4月9日
 全子宮切除術を受ける。
      4月20日
 退院
      4月25日
 尿検査は陽性だった。
 腹部の右下4分の1に痛みあり・便秘がひどく・貧血も起き・レバーの注射と鉄分の錠剤を投与。血圧はひどく低かった。排尿時に膀胱に痛みがあり、時々背中に鈍い痛みが走った。
 4月19日に撮った肺のX線写真は陰性だった。
 心電図も正常で、基礎代謝はプラス6.
 クリーム状の白い分泌物が膣から出た。
 何人かの有名な婦人科医に診せたが、皆が「望みは無い」と言った。その1人は、40回の強いX線治療を勧めたが、患者は1回の治療にも耐えられなかった。

■1953年5月4日のゲルソンクリニックでの初診時の状況およびその後
 最初に私が診た1953年5月4日には、患者は下腹部と背中の下部に、特にひどい痛みがあった。ベッドに寝る時には、腹の上に脚を曲げて寝ていた。患者は少し触れても痛がるので、診察がほとんど出来ない。
長くて小さい塊りが、右下腹部4分の1あたりに触知でき、大きさが4×1インチのものと小さなものが2つあり、触れるとひどく痛がった。
肝臓は肥大していたが、触診の限りでは腫瘍はなく、脾臓は肥大しておらず、肺にも異常は観えなかった。

 1953年5月19日
 尿のアッシュハイム・ゾンデック反応は陰性で、血液のそれは陽性1/20だった。
 5月末には痛みがなくなりベッドから起きて歩き回れるようになった。
 6月初めには腫瘍もグリグリも、触知できなくなった。
 7月末には、患者自身「健康に戻った」と感じるようになり、体重も107ポンドから110ポンドに増えた。しかし、アッシュハイム・ソンデック反応は、同じ年の6月12日までは陽性だった。
 6月3日のX線検査では、右肺下部に在った不規則な乳白色の影が、かなり小さくなっているのが判った。この数ヶ月のうちに完全に回復し、異常な症状もなくなった。

 患者の事を最後に聞いたのは、1957年5月23日で、そのX線検査は「胸部に1953年5,6,8月には認められた右5番と左6番間空の転移の結節が、もうなくなっている」と、報告している。
 患者は健康状態もよく、正常な労働能力を持っていた。
| 次へ