振り返れば、それなりの山あり谷ありの人生ですが、
大きな目で見れば、普通の人生を歩んでおります。
”普通”というのは難しい言葉だけれど、
ここでは一般的ではありえないということ。
車を何台も所持し、買い物に大枚をはたくような生活でもなければ、
親が元KGBのスパイで敵方に誘拐されたこともない。
至って普通に暮らしております。
子供は育った環境を標準とするから、成長するにつれ、
自分は”普通”か、そうでないか、と判断する。
その範囲だって、ある程度わかってきた高校生のとき、
私の普通という言葉に愕然としたことがあります。
それは、同級生の女友達が、自分のことを”普通”と言ったから。
天地が引っくり返るくらい驚きましたよ!
決して彼女が変な子、というわけではありません。
むしろ、本が好きだから、知識もあり、常識的で、
高校生にしては色気があり、とても良い子でした。
が、感性が違うんですよ。
自分と正反対の人間の反応などは予想できるけれど、
全く、宇宙人のような感性でしたから、驚かされることばかり。
その頃の私は、”ちょっと変わっている”というのを目指していたのですが、
こういう感性の持ち主には歯が立たないと、
普通でいいんだ、と思った矢先のことでした。
この子なら、客観的に見て、自分は変わった感性の持ち主だと、
思っていると信じていたから。
そんな彼女ですら、自分を普通と言う。
人間って、やっぱり自分が標準なんですね。
普通の人生って難しいんですよ。
小説だって、映画だって、特殊な環境や人間だったり、
ごく普通の主婦が事件に巻き込まれて、という話がほとんど。
当たり前の日常を描くというのは、相当な力のいることで、
なかなか出来ることではない。
だれもが共有する退屈さを描き出したところで、
自分の日常を24時間早回しもせずにビデオを放送するようなもの。
それくらい”普通”って退屈なこと。
でも、なくてはならない大切な時間でもあります。
ハレの日が待ち遠しいのは、普通の日があるからこそ。