原爆ドームと平和公園・その1 禎子さんの祈り [2008年09月25日(木)]
「平和都市・広島を歩く」シリーズの続きです。
(また勝手にシリーズ名が変わってる〜)
広島駅の裏の方をウロウロしているうちに
時刻は午後1時を過ぎました。
そろそろ駐車場の混雑も落ち着いた頃でしょう。
繁華街へ戻ります。
駐車場に車を入れてから、目的のパソコンショップへ。
用事は10分もかからずに終わりましたが
駐車場に入れたのに、すぐ帰ってはもったいない
ということで、近くにある平和公園へ行くことにしました。
近くというより、駐車場の前を走ってる、細い1車線の
道路の向こう側は、もう平和公園なんです。
原爆慰霊碑です。
正面に立つと、原爆ドームが
スッポリと入るように、設計されています。
慰霊碑は、はにわの屋根の形をしていて
原爆犠牲者の霊を、雨露から守りたいという
気持ちから、この形になったそうです。
設計は、建築家の丹下健三氏で
丹下氏は、慰霊碑だけでなく、公園内の多くの
モニュメントや、公園全体の設計にも係わっています。
原爆ドームと平和公園の記事は、6月にも一度
書こうとしたんですが、思うことも多く、いくら書いても
自分の気持ちとは、かけ離れていくようで
結局書けませんでした。
今回は、原爆ドームと平和公園のご案内をしながら
あまり感情は交えず、63年前にここで起こった
事実だけを書きます。
起こった事実といっても、桜はまだ生まれていないので
家族や親戚の被爆者、目撃者から聞いた話ですが...
原爆記念日は1ヶ月以上前に過ぎましたが
こういうことは、特に原爆記念日じゃなくても
いつも考えなくてはいけないことだと思います。
長くなるので、3回に分けました。
もしお付き合いしていただけて
少しでも、原爆のこと、平和について
考えていただけたら、とても嬉しいです。
(また勝手にシリーズ名が変わってる〜)
広島駅の裏の方をウロウロしているうちに
時刻は午後1時を過ぎました。
そろそろ駐車場の混雑も落ち着いた頃でしょう。
繁華街へ戻ります。
駐車場に車を入れてから、目的のパソコンショップへ。
用事は10分もかからずに終わりましたが
駐車場に入れたのに、すぐ帰ってはもったいない
ということで、近くにある平和公園へ行くことにしました。
近くというより、駐車場の前を走ってる、細い1車線の
道路の向こう側は、もう平和公園なんです。
原爆慰霊碑です。
正面に立つと、原爆ドームが
スッポリと入るように、設計されています。
慰霊碑は、はにわの屋根の形をしていて
原爆犠牲者の霊を、雨露から守りたいという
気持ちから、この形になったそうです。
設計は、建築家の丹下健三氏で
丹下氏は、慰霊碑だけでなく、公園内の多くの
モニュメントや、公園全体の設計にも係わっています。
原爆ドームと平和公園の記事は、6月にも一度
書こうとしたんですが、思うことも多く、いくら書いても
自分の気持ちとは、かけ離れていくようで
結局書けませんでした。
今回は、原爆ドームと平和公園のご案内をしながら
あまり感情は交えず、63年前にここで起こった
事実だけを書きます。
起こった事実といっても、桜はまだ生まれていないので
家族や親戚の被爆者、目撃者から聞いた話ですが...
原爆記念日は1ヶ月以上前に過ぎましたが
こういうことは、特に原爆記念日じゃなくても
いつも考えなくてはいけないことだと思います。
長くなるので、3回に分けました。
もしお付き合いしていただけて
少しでも、原爆のこと、平和について
考えていただけたら、とても嬉しいです。
平和公園は、広島市の中心部にある中島地区
と呼ばれる、原爆の爆心地だったところにあり
面積は約122,100u(約37,000坪)あります。
被爆直前まで、ここには材木町、加古町など
7つの町があり、約6,500人の住人がいました。
そんな場所に、なぜこんな大きな公園を
作ることが出来たのか...それは、この地区一帯が
原爆で全滅してしまったからです。
平和公園とは、そういう場所に作られた公園なんです。
原爆慰霊碑から、北のほうへ歩いていくと
折り鶴を高く掲げた、原爆の子の像があります。
この像のモデルになった、佐々木禎子さんについては
少しでも原爆のことに、関心をもっている人なら
良くご存じだと思うので、ここで詳しくは書きません。
ご存じでない方は⇒こちら[サダコと原爆]を見てください。
2歳で被爆して、12歳で原爆症が発病した禎子さんは
ただ「生きたい、健康になりたい」ということだけを願って
病院の薬の包み紙で、鶴を折り続けました。
願いはかなわず、亡くなりましたが、そんな禎子さんの
平和への願いをこめて、この像が建てられました。
像の下には禎子さんを悼み、世界中から寄せられた
折り鶴が飾られています。
もし原爆がなくて、禎子さんが生きていたら今年65歳。
まだまだ、人生を楽しんでいるはずの年齢です。
原爆は、戦争は、そんな人の生きる権利まで
奪ってしまいます。
ここで少し、桜の家族の話をさせてくださいね。
桜の家では、曾祖父母、祖父母、父、そして
叔父・叔母(父の弟妹)と、7人の被爆者がいました。
さらに母方の祖父も被爆者でした。
このうち父と、母方の祖父は間接被爆ですが
あとの6人は、直接被爆しています。
曾祖父は、桜が生まれる半年前に亡くなったので
記憶にはありませんが、曾祖母は桜が幼稚園の時
原爆症で亡くなりました。 72歳の時です。
その当時は、曾祖母はもう歳を取ってるから...なんて
思っていましたが、今考えるとまだまだ若いですよね。
祖父母、父、母方の祖父は、もう亡くなりましたが
幸い最後まで、原爆による病気はありませんでした。
被爆したと言っても、当時祖父母たちが住んでいた家は
爆心地から約3.5km離れていて、直接的被害は
住んでいた家が倒壊したことと、多少のかすり傷程度で
多くの被爆者が経験された火傷などはありませんでした。
でも原爆が本当に恐ろしいのは、怪我や火傷ではない
ということは、佐々木禎子さんや曾祖母が亡くなった
ことでわかりますよね。
家族の中で、いちばん爆心地に近い場所にいたのは
自転車で職場へ通勤中だった祖父でした。
祖父はもう少しで職場に到着するというときに
爆心地から約800mというところで被爆しています。
これほど近いところにいたのに、たまたま高い建物が
たくさんあり、その陰になっていたおかげで
生命にかかわるようなことはなかったそうです。
ただ、爆風で自転車ごと吹き飛ばされたので
身体中が打ち身のようになり、動くのも
大変でしたが、この様子では職場へ行っても仕方がない
ということで、傷む身体を引きずるようにして、自宅まで
3km余りの道を、歩いて帰ったそうです。
一方、曾祖父母と祖母は自宅で、叔父と叔母は
自宅近くの作業出ていて、被爆しました。
このとき家族にとって、頼りになったのは祖母でした。
前に法事の記事にも書きましたが、祖母は生まれつき
心臓が悪く、本来なら自分がいちばん先に安全な場所に
避難しなければいけないんですが、瓦礫の中から
曾祖父母を助け出し、近所にいる子供(叔父と叔母)を
迎えに行って、4人を先に避難させて、自分は
倒壊した家の前で、祖父の帰りを待っていたそうです。
もし自分まで避難してしまったら、祖父が帰ってきたとき
行き先がわからなくなってしまう、と思ったそうです。
そんなことは、あとでどうにでもなるんだから
早く避難すればいいのにと思いますが
当時の混乱ぶりを考えれば、祖母の判断は
正しかったのかもしれません。
こういう状況でしたから、祖父母たちから聞いた話では
原爆投下当時の、悲惨な状況というのはわかりません。
本当に悲惨な光景を目にしたのは、間接被爆だった
母方の祖父、そして原爆投下の目撃者になった
母でしたが、その話は、次の回に書きます。
ところで、もうひとりの被爆者であるはずの父は
このときどうしていたかというと、なんと父は
広島にはいませんでした。
この時は、出征していて、九州の部隊にいたんですが
戦争が終わり、広島に家族がいるものはすぐに帰れ
ということになって、原爆投下の1週間後に
広島へ戻ってきたそうです。
原爆投下から2週間以内に、被爆地に入った人は
被爆者と認定されるので、父も被爆者になりました。
ただ、この被爆者の認定法には、多少疑問が残ります。
原爆による放射能の影響が、たった2週間で
消えるとは思えないんですけどね。
父の出征時の話は、また別の意味で
貴重な戦争体験談なんですが、原爆とは直接
関係ないので、また別の機会に書きますね。
長い文章になってしまいました
まだまだ、序の口なんですけど...
平和を象徴する鳩です。
平和公園には、たくさんいます。
と呼ばれる、原爆の爆心地だったところにあり
面積は約122,100u(約37,000坪)あります。
被爆直前まで、ここには材木町、加古町など
7つの町があり、約6,500人の住人がいました。
そんな場所に、なぜこんな大きな公園を
作ることが出来たのか...それは、この地区一帯が
原爆で全滅してしまったからです。
平和公園とは、そういう場所に作られた公園なんです。
原爆慰霊碑から、北のほうへ歩いていくと
折り鶴を高く掲げた、原爆の子の像があります。
この像のモデルになった、佐々木禎子さんについては
少しでも原爆のことに、関心をもっている人なら
良くご存じだと思うので、ここで詳しくは書きません。
ご存じでない方は⇒こちら[サダコと原爆]を見てください。
2歳で被爆して、12歳で原爆症が発病した禎子さんは
ただ「生きたい、健康になりたい」ということだけを願って
病院の薬の包み紙で、鶴を折り続けました。
願いはかなわず、亡くなりましたが、そんな禎子さんの
平和への願いをこめて、この像が建てられました。
像の下には禎子さんを悼み、世界中から寄せられた
折り鶴が飾られています。
もし原爆がなくて、禎子さんが生きていたら今年65歳。
まだまだ、人生を楽しんでいるはずの年齢です。
原爆は、戦争は、そんな人の生きる権利まで
奪ってしまいます。
ここで少し、桜の家族の話をさせてくださいね。
桜の家では、曾祖父母、祖父母、父、そして
叔父・叔母(父の弟妹)と、7人の被爆者がいました。
さらに母方の祖父も被爆者でした。
このうち父と、母方の祖父は間接被爆ですが
あとの6人は、直接被爆しています。
曾祖父は、桜が生まれる半年前に亡くなったので
記憶にはありませんが、曾祖母は桜が幼稚園の時
原爆症で亡くなりました。 72歳の時です。
その当時は、曾祖母はもう歳を取ってるから...なんて
思っていましたが、今考えるとまだまだ若いですよね。
祖父母、父、母方の祖父は、もう亡くなりましたが
幸い最後まで、原爆による病気はありませんでした。
被爆したと言っても、当時祖父母たちが住んでいた家は
爆心地から約3.5km離れていて、直接的被害は
住んでいた家が倒壊したことと、多少のかすり傷程度で
多くの被爆者が経験された火傷などはありませんでした。
でも原爆が本当に恐ろしいのは、怪我や火傷ではない
ということは、佐々木禎子さんや曾祖母が亡くなった
ことでわかりますよね。
家族の中で、いちばん爆心地に近い場所にいたのは
自転車で職場へ通勤中だった祖父でした。
祖父はもう少しで職場に到着するというときに
爆心地から約800mというところで被爆しています。
これほど近いところにいたのに、たまたま高い建物が
たくさんあり、その陰になっていたおかげで
生命にかかわるようなことはなかったそうです。
ただ、爆風で自転車ごと吹き飛ばされたので
身体中が打ち身のようになり、動くのも
大変でしたが、この様子では職場へ行っても仕方がない
ということで、傷む身体を引きずるようにして、自宅まで
3km余りの道を、歩いて帰ったそうです。
一方、曾祖父母と祖母は自宅で、叔父と叔母は
自宅近くの作業出ていて、被爆しました。
このとき家族にとって、頼りになったのは祖母でした。
前に法事の記事にも書きましたが、祖母は生まれつき
心臓が悪く、本来なら自分がいちばん先に安全な場所に
避難しなければいけないんですが、瓦礫の中から
曾祖父母を助け出し、近所にいる子供(叔父と叔母)を
迎えに行って、4人を先に避難させて、自分は
倒壊した家の前で、祖父の帰りを待っていたそうです。
もし自分まで避難してしまったら、祖父が帰ってきたとき
行き先がわからなくなってしまう、と思ったそうです。
そんなことは、あとでどうにでもなるんだから
早く避難すればいいのにと思いますが
当時の混乱ぶりを考えれば、祖母の判断は
正しかったのかもしれません。
こういう状況でしたから、祖父母たちから聞いた話では
原爆投下当時の、悲惨な状況というのはわかりません。
本当に悲惨な光景を目にしたのは、間接被爆だった
母方の祖父、そして原爆投下の目撃者になった
母でしたが、その話は、次の回に書きます。
ところで、もうひとりの被爆者であるはずの父は
このときどうしていたかというと、なんと父は
広島にはいませんでした。
この時は、出征していて、九州の部隊にいたんですが
戦争が終わり、広島に家族がいるものはすぐに帰れ
ということになって、原爆投下の1週間後に
広島へ戻ってきたそうです。
原爆投下から2週間以内に、被爆地に入った人は
被爆者と認定されるので、父も被爆者になりました。
ただ、この被爆者の認定法には、多少疑問が残ります。
原爆による放射能の影響が、たった2週間で
消えるとは思えないんですけどね。
父の出征時の話は、また別の意味で
貴重な戦争体験談なんですが、原爆とは直接
関係ないので、また別の機会に書きますね。
長い文章になってしまいました
まだまだ、序の口なんですけど...
平和を象徴する鳩です。
平和公園には、たくさんいます。
コメントありがとうございます
読んでもらって、少しでも平和について
考えてもらえたら、それで嬉しいです。
ありきたりな言葉でも、大切なことだと思います。
本当に、2度とあってはいけないと思います。
続き、もう少し待ってくださいね。
月末なので、片付けなくちゃいけない
仕事がたくさんあって...
落ち着いたら書きますね
佐々木禎子さんのことは、名前だけは聞いたことがありましたが、どんなことがあったのか、よく知りませんでした。ホームページも見て、勉強になりました。
桜姫さんのご家族も、原爆に遭われているのですね。
ありきたりのことしか言えませんが、こんなことは二度とあってはならないことだと思います。
お話の続きもぜひ読みたいので、待っています。
コメントありがとうございます
あら、桜たちのコースと、ちょうど逆だ〜
小学校が山口・萩・北九州
中学が京都・奈良
高校は信州・東京・日光でした〜
修学旅行生は多いですね。
近頃は、海外への修学旅行
というのが多いみたいですね。
それも結構なんだけど
その前にもっと、日本を知ることが先
だと思いますね。
小学校が日光 で 中学が京都 高校で萩・津和野 あれぇ 高校だよなぁ
いやいや 寅もぼけたでしね 間違えなくいったんだけど 記憶がどれだったかなぁ と
その すぐ後に 長崎にも落とされたんですよねぇ でも なんか 広島の方が 有名だもんねぇ あまり 良い有名ではないが でも こんなことが 二度と内容に お祈りしましょう
でっぱ
こちらへもコメントありがとうございます
読んでもらって、ありがとう。
話があっちこっち飛んじゃって
読みづらかったでしょう。
生存されている被爆者の方も少なくなって
お話を聞く機会もなかなかないんですが
しっかり聞いて、受けとって
また次の世代へ伝えなくちゃいけないですね。
まだあと2回続きますが
気が向いたら、お付き合いしてもらえると嬉しいな。
ワタシの誕生日は8月9日
長崎の原爆記念日です
誕生日のたびに色々考えさせられていたん
ですよね〜
昔、はだしのゲンもよく読みました
長崎は2回行った事があるんだけど
広島はまだ一度も訪れた事がなくって
広島公園がそういう場所だったなんて
知りませんでした
もう63年・・・絶対風化させてはいけない
事実ですよね
あの一瞬で何気ない日常が奪われたんだから
胸が痛みます