わたしの好きなことば〜その3 [2007年08月19日(日)]

先日読んだ『浜田廣介童話集』(ハルキ文庫・2006年)のなかで、見つけたこころに響いたことばです。

「なあに、ちっとも。水くさいことをいうなよ。なにか、ひとつの、めぼしいことをやりとげるには、きっとどこかで、いたい思いか、損をしなくちゃならないのさ。だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」

「泣いた赤おに」のなかで青おに赤おににむかっていったことばです。
青おには、この直前に、人間と仲よくなりたい赤おにに対し、じぶんが人里で暴れることを提案し、その申し出に躊躇し、遠慮する赤おににこのことばをつづけました。

「どんなことにであおうとも、けっして、ひとをうらむなよ。けっして、じぶんをすてるなよ。それから、もう一つ、どんなものでも、じぶんのものとなったら、たった一つは、あとにのこしておくがよい。さあ、それじゃ、さようなら。」

「砂山の松」のなかのことばです。神さまが、じぶんのふところにあったふたつのたねを、ひとつは人間に、もうひとつは鳥に変化させたときに申し伝えたことばです。このあと、そのことばがどういう意味をもってくるのかは、じっさいにみなさんに読んでいただいて、確認していただければ、幸いです



Posted at 12:10 | 言の葉 | この記事のURL

流星群 [2007年06月18日(月)]

わたしが記事更新をサボっているにもかかわらず、たくさんのかたがたにブログを訪れていただいて、どうもありがとうございました。涼しくなるまで、そのようにサボりながらブログ活動させていただきますので、どうかお許しください

ということで、本文です。

一昨日の土曜日、渋谷で開かれた種ともこさんのライブに行ってきました。
これまでもわたしのブログには、たびたび登場しているさんですが、わたしは20年来のファンです。

そのライブで、《流星群》といううたを歌う前になさったお話です。

スマトラ沖地震直後、夜空にこれまでになく多くの流星が見られたそうです。

その流星は地震によって亡くなったひとたちの魂が姿を変えたもの、そう噂されたそうです。

種さんは、その話を聞いて、とても切なく悲しくなり、《流星群》という曲を書いたとおっしゃっていました。

でも、最近少し考え方が変わったそうです。

自分も、できることなら、亡くなったあとで流れ星になり、ひとの願いをかなえてあげたい

そして、それはすてきなこと。そう思えるようになったそうです。

わたしも、他人を踏み台にする汚れた願いをかなえることはしたくないけど、亡くなったあと、だれかをしあわせにできたら、自分の生に意味を見いだせる気がしました。
Posted at 22:00 | 言の葉 | この記事のURL

のりぴーさん・ともたんさんへ [2007年06月09日(土)]

以前、わたしが「こころのかさぶた」という文を書いたことを覚えていますか。

おふたりが、今なさろうとしていることは、おふたりのブログを安心の場所としているひとたちのこころのなかに巨大な悲しみ色をしたビー玉を投げ入れることです。

そもそものことの発端は、ともたんさんの文章です。でも、ともたんさんご自身がのりぴーさんのブログにコメントしているように、それはのりぴーさんを念頭に置いて書かれたものではありませんでした。そうであるなら、そもそものりぴーさんがブログを閉鎖する理由・根拠は存在しないはずです。

ともたんさんが自分のブログであえて迷惑なさっているかたの名前を挙げなかった優しさと、のりぴーさんが自分自身のブログやコメントに対して抱かれている自己批判の厳しい目、どちらも他人を思いやるあたたかいこころからでたもののはずです。

その思いやりのこころが、結果として、誤解を生んだようです。

わたしは、かねてからあちこちで言っているように、あやまちをおかさない人間はいないと考えています。

ましてや、今回の出来事はおふたかたの他人を思いやる善意のこころが生んだ誤解が端緒です。

誤解がとけた今、ブログ閉鎖などとおっしゃらずに、これまでのように続けていただけないでしょうか。

わたしたちのこころに沈む巨大なビー玉の色を悲しみ色からよろこびの色に変えていただくこと、できませんか。

おふたりの共通のおともだちとして、勝手に時の氏神を名乗り出たわたしの一生のお願い、どうか聞き入れていただけますよう、深くお願いいたします。
Posted at 21:01 | 言の葉 | この記事のURL

わたしの好きなことば〜その2 [2007年04月29日(日)]

ひさしぶりに《わたしの好きなことば》です

流れてしまわずに、流れていく。

ないものを探すのではなく、あるものを見つける。


このことばは、わたしの大好きなアーティスト(シンガーソングライター)の種ともこさんのことばです。

種さんは、わたしと同年代のアーティストです。デビューから21年経つにもかかわらず、その輝きはいっこうに失われていない、とファンのわたしは思います。デビュー当初は「おもちゃばこをひっくりかえしたよう」と形容された、にぎやかでポップな楽曲が特色でしたが、その後、結婚、出産を経験したことによって、彼女の曲のメインテーマともいえる「愛へのおもい」がより深化し、そのおもいが具体的かつ普遍的なかたちで楽曲に反映されるようになりました。

じぶんのこころに迷いが生じたとき、指針となってくれることばです
Posted at 18:00 | 言の葉 | この記事のURL

わたしの好きなことば〜その1 [2007年04月13日(金)]

おともだちのココさんの人気シリーズ『名言・名句』の真似をして、ときどきわたしの好きなことばをご紹介することにします。

記念すべき第一回は、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)のことばです。


あなたは、あなた自身の人格においてであれ、他者の人格においてであれ、人間性を常に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行動しなさい。

(『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)より、訳文はジェームズ・レイチェルズ著 古牧・次田訳『現実をみつめる道徳哲学』(2003 晃洋書房)p133より引用)



カント(1724-1803)は、近代哲学の大立者で、ドイツ観念論哲学の祖と崇められている哲学者です。カント哲学は、その研究に一生を捧げる研究者がいるほど、深遠で興味深い哲学です。ここでは、彼の哲学について、深く掘り下げることはしませんが、彼についてのおもしろいエピソードをあげておきます。

カントは、たいへん几帳面な性格でした。いつも決まった散歩コースを決まった時間に散歩するため、散歩コースにある家では彼の姿を見て、時計の狂いを調整したとまでいわれています。



胸に刻んでおきたいことばだと思います


【4月14日付補足】

引用した一節だけではわかりづらいので、補足させていただきます。あらかじめお断りいたしておきますが、わかりやすさを優先させたため、学問的厳密性は追求しない説明となっています。

カントのいう人間性を理性とそれをつくりだす能力と置き換えると、もう少し理解しやすくなるかもしれません。

すなわち、

人間は自ら理性を形成することを目的とするべきで、自らの理性をたんにほかの目的を達成するための手段として扱ったり、他人を自らの目的を達成するための道具として利用するべきではない

というようにとらえていただければいいように思います。
Posted at 22:00 | 言の葉 | この記事のURL

こだわらないこころ [2007年04月08日(日)]

中学時代にいった奈良・京都への修学旅行は、とても楽しい旅行でした

消灯時間後、わたしたちのとなりの男子部屋で話し込んでいた女子が、先生の見回りを察知し、わたしたちの部屋に逃げ込んできたということもありました。そのあと自分たちの部屋へと帰っていきましたが、翌日隠れていたことがばれて、連帯責任で廊下に正座させられ、ねちねちと説教を食らってしまいました。わたしたちの部屋のものはまったく関係ないのに、迷惑な話でした。それにしても、なんで男子部屋から男子部屋に逃げ込んできたのだろう

外出許可をもらい、京都に住んでいる叔父に夕飯におすしをごちそうになったこともありました、・・・などなど、楽しい思い出のある旅行でした。

旅行中、はっきりと記憶に残り、わたしのその後の考え方に強い影響を与えたことばとも出会いました。

それは、奈良・薬師寺に見学に行った時のことです。修学旅行で薬師寺に行かれたかたは、ご存知だと思うのですが、薬師寺では僧侶が修学旅行生を相手に説法をしてくれます。

大きな声でおもしろいお話を交え、説法をしてくれます。説法の細かな内容は忘れてしまいました。しかし、そのとき「こだわらないこころ、それが般若心経」という一節は、どういうわけだが、わたしのこころに深く刻まれました。

いつのころからか、「こだわり」ということばがいい意味で使用されることが目立つようになりました。しかし、わたしが学生のころまでは、「こだわり」ということばは、ささいなことにも執着をもつという悪い意味でつかわれることのほうが多かったように記憶しています。

こだわらないこころ、それが般若心経

いやなことや辛いことがあったとき、こころのなかでつぶやきました。
般若心経は、仏教の根本概念のひとつ、「空」を説くお経だということしか知りませんでしたが、つぶやくことによってもやもやした気持ちが雲散霧消するようになりました。

五年ほど前、日本橋の三越で『薬師寺展』が開催されました。会場では、薬師寺にあるさまざまな美術品や仏像が展示されていました。

展覧会場の出口近くに、薬師寺に納めるための写経用紙が販売されていました。久しく毛筆など握ったことのないわたしですが、悪筆を改善するためにも、写経をはじめてみようかなぁ、と思い、写経用紙を購入しました。そこでは、写経用紙として、般若心経、薬師経、唯識三十頌の三種の経が売られていました。はじめてだったので、一番文字数のすくない般若心経を買いました。

薬師寺の写経はお手本を写経用紙の下に敷いて、その上からなぞるという初心者でも取り組みやすいものです。

うちに帰ってから、写経用紙を開封すると、お手本のおもて面には般若心経が書かれていましたが、うら面にはあの中学のころ聞いたことばが書かれていました。

般若心経のこころ

かたよらない こころ
こだわらない こころ
とらわれない こころ
ひろく ひろく もっとひろく
これが 般若心経 空のこころなり

おぼえていた一節はちょっと違いましたが、あらためて全文を読むととてもたいせつなこころのありようをいってくれているように思います。

最後に念のために一言、わたしはお坊さんではありません 




←ことしのお正月に参拝に行った薬師寺東京別院でいただいた散華です。
Posted at 20:25 | 言の葉 | この記事のURL

「こころのかさぶた」あとがき [2007年04月02日(月)]

昨日の記事、「こころのかさぶた」にたくさんのコメントをいただきまして、どうもありがとうございました

「こころのかさぶた」は、みなさんのブログにお邪魔しているときによく感じたことに触発されて書いたものです。それは、多くのみなさんが真剣に生きようとするあまり、じぶんの過去、現在についてきわめて厳しい評価を下しているということです。

たしかに、じぶんがかかわる過去の出来事や、現在のじぶんの姿をよく見つめ、なおすべきことはなおし、反省すべき点は反省することは、とても大切なことだと思います。

しかし、必要以上にじぶんを責めたり、そのできごとに執着することは、いわば、じぶんによるじぶんに対するいじめ、のような気がします。

いじめはいけません

じぶんの人生を過去・現在のじぶんをいじめることに費やすことより、未来のじぶんのために生きてほしいと思い、一文を寄せました。

本来なら、みなさまのコメントひとつひとつに対し、返礼を書くべきところです。しかし、当初みなさまが「こころのかさぶた」を読んだときに感じたこころの動き(ビー玉の色とかたち)が、わたしの返礼によって一定の方向に導かれてしまうおそれがあることを危惧し、あえて返礼を書きません。

失礼をお許しください




 ←やっと咲いたわが家の鉢植えのチューリップ
Posted at 21:50 | 言の葉 | この記事のURL

こころのかさぶた [2007年04月01日(日)]

こどものころ、傷跡にできたかさぶたを治りきらないうちに剥いでしまったことはないだろうか。もうすこし我慢すれば、傷が完全にふさがるのにかさぶたをめくったために、再び出血し、またかさぶたができる。なかなか傷が治らない、こんな経験はだれにでもあったと思う。

わたしたちはこころにできたかさぶたも、また剥いでしまうことがあるのではないだろうか。

わたしは感情の記憶というものについてつぎのようなイメージを持っている。

まず、山奥にある深い、深い湖を想像してほしい。
ひとつひとつの記憶は色のついたビー玉だと思ってほしい。
明るい色、暗い色、大きさも米粒のように小さいものからこぶし大の大きいものまで、さまざまなビー玉がある。

わたしたちがいろいろと体験をし、それについて感情が揺れるたびにひとつビー玉が湖の底に沈んでいく。

そんなふうに考えてほしい。

ビー玉は古いものほど底に、新しいものほど上に沈んでいるはずだ。

いやなことがあったとき、それがこころに残す傷跡が大きければ、大きいほど暗い色の大きなビー玉となって沈んでいく。

逆に楽しいことがあったとき、それが楽しければ楽しいほど、明るい色の大きなビー玉に姿を変えて、沈んでいく。

いやなことがあっても、そのあと楽しい経験をたくさんすれば、その暗いビー玉を明るい色で覆い尽くすことができる。

にもかかわらず、わたしたちはそのいやなことを思い悩み、わざわざ底から掘り返し、ビー玉たちの一番上に載せることがある。

偉大な芸術家であるならば、真っ暗闇の大きなビー玉を光り輝くダイヤモンドに変える術を持っているかもしれない。でも、わたしたち普通の人間にはそんなこと不可能だ。

たしかに明るい色しかないビー玉層はたいくつかもしれない、でも暗い色だけのビー玉の塊はまったく味気ない。

暗い色のビー玉をなくすことはできない。でも、明るい色のビー玉で隠すことはできるはずだ。

もうかさぶたをはがすのはやめよう。はがしつづけても、いつかは傷も治ってしまう。だったら、かさぶたはそのままにしていて、ちがうことをはじめればいいのではないか。短い人生、無駄にできる時間は案外少ない。
Posted at 21:48 | 言の葉 | この記事のURL